モトちゃんと私

「一度きりの大泉の話」萩尾望都著を読みました。この本がどういう内容かという説明は省きます。今回は、少女漫画をあまり知らない方にはいろいろな前提を素っ飛ばした話になります。古いファンとしては今まで沈黙してきたことなので、そのスタンスを変えるつもりはないからです。古いといっても「ポーの一族」も「トーマの心臓」も連載終了していて単行本で読み始めた世代です。

萩尾先生の漫画、エッセイ、インタビューを読んできた中で、語られないゆえに察していたことがこの本では具体的に書かれていて、そうか、なるほど、と私は冷静に読めました。沈黙を守るのであれば感想を書く必要もなかったのですが、感想とは違ってひとつだけ伝えたかったのは、モトちゃんをなぐさめたいということ。今現在の世界の萩尾望都ではなく、二十歳そこそこのモトちゃんを。「だって泣いてるもの」。(という台詞は萩尾作品ですよね?どれだったか思い出せないのですが。まさか違っていたらごめんなさい)

モトちゃんさあ、みんな二十歳ちょっとなんだから人間関係なんて上手くやれるわけないよ。若い女子にはよくあるお別れだと思う。ふたりともやがて日本を代表する作家になるような才能を持っていたからちょっとややこしくはあったかなと思うけど。ふたりともずっとトップを走っているから口を出す人も多いのだろうけど。

この集団の中に年長者が1人いたら違ったかもしれないと思う。20代はどんなに賢い人でも人生経験の時間が足りなくて先を見ることができないと思うので、つい白黒つけてしまったりする。誰にも対処ができなかったと思うし、この年頃ではできなくてしょうがなかったと思う。

若いモトちゃんに、モトちゃんの描くものはどれも素敵だよって感想言えたらよかったな。当時の私は自分の記憶も薄っすらとしかないほどチビだったから、それもしょうがないんだけど。

でも先生も書かれていたようにファンも年を重ねたから今は強いよ。モトちゃんは私が12才の時からずっと一緒にいてくれたから、今度は私がそばにいるよ。モトちゃんがつらい時には私のようなファンが世界中にいることを思い出してほしい。見えなくてもファンもずっとそばにいるから、ファンの愛を受け取ってください。

おまえは何様だと思われるかなと思いつつ、少女漫画が心身にしみ込んでいる自分というフィルターを通して、一番大事だと思うことを書きました。

この本の中に出てくる漫画家さんはみんな好きです。特に佐藤史生さんがこんな辛辣な人だったのかと大喜びしました。どの方の言動も作品から感じたことそのままで、こんなに人格が反映されるものなんだなあと答え合わせのような気分にもなりました。

また、「史生さんが大好きだった花郁悠紀子さん」このフレーズを何度もなぞるように読みました。どちらも私が高校生の頃から大好きな漫画家さんで、どちらも旅立たれてしまっていて、それを萩尾望都が書くという構図は、もう涙を誘うこともない遠い昔の思い出を改めて美しい形で静かに提示されたかのようでした。

最後に、私は先生と同じ福岡県の出身なので、トーマが落ちたのは鹿児島本線だと知ったときは高校の友人たちと盛り上がりました。えへへ。文庫版のあとがきです。

フラワーズは電子版をスマホに入れて読んでいるのですが、そうすると「ポーの一族」をどこでも読めて、いつもポケットにエドガー状態なのが幸せ・・と思っている昨今です。

 

 

では、また、漫画家のみなさまが健康で幸せでありますように。

 

 

悪人が救われるということ

BUMP OF CHICKENの話です。

以前、「新世界」について書きました。2019年7月15日付https://higekuro.hatenablog.com/entry/2019/07/15/131349 

歌詞の中の「なんだよそんな汚れくらい 丸ごと抱きしめるよ」がどうしても気になってずっと考え続けてきました。

結論から書きますね。「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」ということなのかなとようやく思い至りました。親鸞の教えは私にはとても語る力はないので、とりあえず文字通りの意味で「善人が救われるのだから、悪人はなおさら救われる」と受け止めてみました。

藤原さんの歌詞には「汚れても 醜く見えても 卑怯でも 強く抱きしめるよ」(Spica)のように相手に向かう文言の中にマイナスイメージの言葉が含まれることがあるのですが、歌を聴くとそんな不穏な響きはなく、慰めと寄り添いのニュアンスが強いと感じました。

「悪人」という言葉もかなりアクが強いと思います。強い言葉を使って人が救われる話をしているという点が共通しているのかなと思いました

藤原基央さんとはどういう人なんだろうと興味が芽生えたのですが、アルバムをいくつか聴いてみたもののヒントはつかめず、まあいいか、ゆっくり考えようと寝かせておきました。

2020年春の緊急事態宣言中に、公式YouTubeでPATHFINDERツアーライブが公開されたので見ました。ここで初めて藤原さんの話し方を聴いて「オレ様人たらしだな」と感じ、物静かそうな見た目とのギャップが面白いなと思いました。

秋には aurora arkツアーDVDを見て感想を書きました。https://higekuro.hatenablog.com/entry/2020/11/13/021513 

これを書く前にツイッターでファンの方々のDVDの感想を読んでいたのですが、その中に藤原さんのトークを「藤くんの説法」と言っている方がいて、なるほど!と突破口が開けました。ちょっと早口で熱を帯びたように語りかけるのと、話の内容が精神性が高いところは確かに説法と言えるかもしれないと思いました。宗教色の無い言い方にすると「人生にとって大事なことを話す人」という感じ。

「Aurora」という歌をもとにひも解いていくと

 

 

もうきっと多分大丈夫 どこが痛いか分かったからね

自分で涙拾えたら いつか魔法に変えられる

 

ほんの少し忘れていたね とても長かった ほんの少し

お日様がない時は クレヨンで世界に創り出したでしょう

 

正義の味方には見つけて貰えなかった類

探しに行かなくちゃ 呼び合い続けた あの声だよ

 

 

「正義の味方には見つけて貰えなかった類」に向けて歌っているのかと思います。俺は見つけて貰えなかったと自分を嘆いているわけではないので。

藤原さんは、比喩的に言うと、一番底にいるのだと思います。地の底。暗い場所なんだけれども、藤原さん自身は頑強で明るいんですよ。その地の底にいろんな人が落ちてくる。螺旋階段をゆっくり下りてくる人もいれば、突然ストンと落っこちてくる人もいる。藤原さんはそうやって出会った人を「ここまでよく来たな」と抱きしめる人。

おまえさあ、こんな地の底まで来て真っ黒だな。でもいいよ、一緒に飯食おうよ、とりあえずあったかい物を腹に入れようか。そしたらさ、そしたらおまえ、ちょっとは元気になるよ。おまえと俺がこうして出会ったことには意味があってさ、ここまで落ちてきたことにも意味があってさ、おまえは自分のことを汚れてて醜くて卑怯だって思ってるかもしれないけど、それでここに来たんだろうけど、ここでしか見えないもの、聞こえないものがあるんだよ。おまえはそれを知ったんだ。もう十分知ってるんだ。だからさ、もう大丈夫なんだよ、腹いっぱい食って、寝たいだけ寝て休んだらいいよ。

休息を取って人間らしくなったその誰かもやがて上を見上げるようになるんですね。その時に藤原さんは

 

 

ああ、なぜ、どうして、と繰り返して それでも続けてきただろう

心の一番奥の方 涙は炎 向き合う時が来た

 

 

おまえ元気になったな、おまえの涙は悲しいだけじゃなくなったな、じゃ、上行くか?俺が抱えて放り投げてやるよ。でも、いいか、上に行くのは俺の力じゃない、おまえなんだ。俺はただそばにいるだけだから、おまえはおまえの力で上がっていくんだよ。上に行ったら俺のことは忘れるかもしれないけど、忘れたっていいよ、おまえが忘れても俺はおまえを絶対に忘れないから、いつも、気がつかなくてもいつも必ずそばにいるからな。

せーの、でその誰かを上に向かって放り投げると、上で3人がキャッチするんですよ。藤原さんがいつどこで誰を投げても3人はしっかりキャッチして最後にその誰かの背中を押す。で、藤原さんは次に落ちてきた人にまた声をかけるんですね、きっと。

 

ええと、BUMPの歌と藤原さんの話と話し方を本歌取りしつつ、いつ、どこで、誰に対して発した言葉なのかを整理したところ、ようやく「いわんや悪人をや」にたどり着いた感じです。悪人とは犯罪者のことではなく、自分はダメだな、何をやってもうまくいかないなと自分自身にマイナスのイメージを植え続けているような人のこと。こういう「悪人」の弱さがつい目に入ってしまう慈悲の人は世の中にはそこそこいると思います。目に入ったら黙っていられず何らかの行動を起こす人たちもいて、その中で歌うという手段を持っていたのが藤原さんなのかなと思いました。

 

2019年7月から考えたり休んだりまた考えたりしていましたが、一旦落ちつきました。私は一度持った疑問はなんらかの解を得るまではずっと抱え続けます。その解に正解を求めているわけでもないですし、誰にも必要ではない問い立てと解答だとも思っています。でもどうしても引っかかる言葉はそのままにできないというか、解きほぐしたいんですよ、その言葉と言葉を発した人の本質を。ただそれだけです。

 

 では、また。

 

 

ずっと夢を見て今も見てる

自分の軸を立て直すシリーズ4。

前回に続いて歌詞をどう聞いているかの話です。私のストライクゾーンの方々について語ってみます。

 

最初は泉谷しげるさんから。「野生のバラッド」

 

 

野生のごとく

叫んでられたら

このマチにも

用がなくなる

ここにいる以上

眼つきを変えて

ふるえて眠る

夜を知る

 

Oh なんてお前に伝えよう ひとりの鏡の中で

誰かをキズつけてきた日々の その時の顔つきで

吠える

 

Oh なんてお前に伝えよう 騒ぎの好きな俺について

Oh なんてお前に伝えよう 静かに暮らすいらつきを

 

 

「静かに暮らすいらつきを」というフレーズが好きです。泉谷さんは私が20代の頃は既にテレビで「暴れる人」としてお茶の間の認知度が高かったのですが、この曲が収録されているアルバム「吠えるバラッド」を聴いて、泉谷さんにとっての「静かに暮らす」ことはテレビで暴れることなんだなと思いました。万人に愛される穏やかで静かな日々。

当時テレビのインタビューで「なぜ『金曜日の妻たちへ』に出演しようと思ったのですか」と聞かれて「自分がいる音楽業界とは違う言葉を使う場所に身を置きたいと思ったから」という趣旨のお話をされていました。

普段とは違う言葉に接することができる場所と、自分の内なる熱を放出できる場所、芯から騒げる場所である歌を歌うことの両輪を必要とされているのかなと思っていました。

普段とは違う「環境」と言ってもいいところを「言葉」とおっしゃったのがなんとも私好みで、こういう知的で理性的な男性と結婚できたら幸せだろうなと思っていたので、友人や同僚に好きな芸能人について聞かれると泉谷さんと答えては「えっ、なんで」「趣味が変だからお嫁に行けないのよ」などと失礼なことを言われてましたよ。泉谷さんの歌は素敵なのよといちいち反論してました。

 

次はストリートスライダーズのハリーさん。

「のら犬にさえなれない」はスライダーズの代表曲と言ってもいいと思います。

 

 

最後のコインは 何に使うのさ

最後のコインで 何が買えるのさ

遊びすぎた夜はいつも 誰かを想ってる

Baby,のら犬にさえなれないぜ

 

最後のダンスは 誰と踊ろうか

最後のダンスで 誰を誘おうか

うかれすぎた夜はいつも 背中にのしかかる

Baby,のら犬にさえなれないぜ

 

空は晴れてるのに 雨が降ってるのさ

Baby, baby教えてくれ

こんなことってあるのかい?

 

疲れたシャツ着て 通りをぶらついて

人混みの中で 水たまり飛びこして

誰もいない夜はそうさ 寝ぐらへ帰るだけ

Baby,のら犬にさえなれないぜ

 

 

「うかれすぎた夜はいつも 背中にのしかかる」が好きです。夜遊びしてもはしゃいだ感じはなく、のしかかる重い物を抱えて歩いている青年。最後はちゃんと寝ぐらへ帰る生真面目さを持った人。この真面目さはたぶん、ロックの王道しか歩きたくない、歩けないということだったのかもなとつらつら思いました。

もうひとつ「ありったけのコイン」

 

 

ありったけ コインかきあつめて

のんだくれ オマエとどこへ行こう

つかの間の夢でも さがそうか

やってくる朝は あいかわらずさ

かわいてる風が 吹きぬける街

Ah baby, baby どのくらいの願いごとが

Ah baby, baby 空の下にぶらさがってる

今夜オマエに 何を買ってやろう

今夜オマエに 何を見せてやろう

 

 

「コイン」はハリーさんの歌詞のキーワードですが、スライダーズが欲しかったのは札束ではなくコインに象徴されるキラキラした何かなんだろうなと感じていました。自分が持っているありったけのキラキラしたものを見せてやろうとしてくれているんだなと思います。「どのくらいの願いごとが 空の下にぶらさがってる」が好きです。壮大な七夕って感じ。

 

次は宮本くん。デビューアルバムの中の「花男

 

 

きさまに言うこと何もない

聞きたいことも何もない

俺は口もと笑いうかべて

きさまを信じるさ

 

 

20代当時、ここに何か共鳴するものを感じていました。言いたいことや、やりたいことを抱えているけれど、どうしたらいいのかまだよくわからない若者の怒りや焦燥、それをこらえて「きさまを信じるさ」と苦い物を飲み込んでいる感じが好きです。

それから「孤独な旅人」

 

 

孤独な旅人

いずれ僕ら そんなものだろう

浮雲のように ふわふわと

 

 

ここの「いずれ」がたまらなく好きなんですよ。好きすぎてふるふるするというか、わなわなするというか。書き言葉がそっとすべり込んだ感じが芯から好きです。

 

 

振り返れば 誰かの声 誰かの影

どこまでも ついて来る 世間の影

つかまえて 勇気づけて 俺を

 

 

この3行も美しくて、「どこまでもついて来る世間の影」のところでは、世間に怯えているかのような青年の姿が想起されます。孤独な旅をしているけれどつかまえて勇気づけてほしかったんだな、と宮本くんの若さを今なら冷静に見られる気がします。

そんなナイーブな文学青年も50代になってからの「Easy Go」では

 

 

悲しみけむる町の中 孤独にさいなまれしこのハートに

愛と喜びの夢を咲かせるぜ 偶然とノリと思いつきでさあ飛び出せ

 

 

孤独でも愛と喜びの夢を咲かせると言い切るところが、もう世間の影が追いかけてきても返り討ちくらいはできそうですよね。

「悲しみけむる」がもだもだ(悶々)するほど好きです。水彩で灰色とベージュに薄く細くピンクを刷いたような町のイメージ。こういう繊細な表現は若い頃と変わらないと思いますが、「偶然とノリと思いつきで」という弾けた言葉が加わるところに年月を重ねてきた余裕も感じます。平たく言うと、宮本年取ったな、年を取ってカッコよくなったなって思って泣き笑いみたいな嬉しくもせつない気持ちになりました。

 

最後は清志郎さん。「毎日がブランニューデイ」

 

 

君と真夜中に話した いろんな事

75%は 忘れてしまった

 

君と長い間過した この人生

80%以上は 覚えてないかも

 

Hey Hey Hey でもいいのさ

Hey Hey Hey 問題ない

君がいつもそばにいるから

毎日が新しい

 

 

数字という要素も歌詞にはあったな、と思った歌です。%で気持ちを表していって、最後は

 

 

今日も朝が来て 君の笑顔を見て

100%以上の 幸福を感じる

100%以上の 幸福を感じる

365%完全に幸福

 

 

365「%」と単位をずらしてストンと言葉を落とすところが清志郎さんさすがだなあと思いました。

「君と長い間過したこの人生」というフレーズも効くというか、愛しているとかよりもよほど胸にくる。

次は「デイドリームビリーバー」

 

 

ずっと夢を見て 安心してた

僕は Day Dream Believer そんで

彼女はクイーン

 

 

あまりにも有名な日本語歌詞ですが、「day dream believer」の訳が「ずっと夢を見て安心してた」ということだと思いました。名詞の訳を必ずしも名詞にする必要はないと理解しました。

「そんで」が「and a(アンダ)」の音の移し替えなのは多くの人が語っていることですが、ミュージシャンにとっては文字も音なんだなと思いました。漫画にとっての文字が絵であるように。

 

20代の頃はこの方たちが本当に好きで好きで好きでしたね。もちろん今も大好きです。

 

 

歌詞は、Oh とか baby とか hey とかが入るので、詩とは視覚の印象がちょっと違いますが、音と声が入ることで歌詞は初めてその全貌を現すと思います。歌詞だけについて語ることは、その歌のほんの一部にしか触れていないのだという自覚をしつつも、今回は私の頭の中で巡る言葉と音についてご披露いたしました。

 

 

 

 

では、また。

 

 

私の頭の中の言葉と音

書きたいことを書いて自分の軸を立て直すシリーズ・その3。

私が歌詞をどう聴いて見ているかについて、とりとめないですが書き連ねていきます。

 

歌を聞く時は基本はぼんやり聞いています。先入観を持ちたくないので、何も考えずただ聞くだけです。

聞いている内に引っかかる言葉が出てくる時があり、繰り返し聞いて自分の中の印象の輪郭を探っていきます。自分が何をどう感じているのか、過不足なく受け止めようとします。

具体例として、手嶌葵さんの「ただいま」を挙げます。

 

 

愛していると素直になれば

想いはすべて伝うでしょうか

 

 

この「伝う」がいいなあと思いました。主語の「想いは」から考えると通常は「伝わる」になると思いますが、「伝わる」だと母音が「ウアアウ」とア音がふたつ続くので明る過ぎる印象になると思います。「伝う」だと「ウアウ」でウ音が主体になって音の響きがくぐもった印象になる。こちらの方が、この喪失と悲しみの歌には合っていると思いました。

この後「頬をしずかに流れた星に 祈る願いは叶うでしょうか」と続くので、「伝う」と「叶う」が韻を踏んではいます。が、個人的に韻は踏んでも踏まなくても別にどっちでもいいという嗜好があるのと、韻を踏むという初歩技術よりも、「想いは」「伝う」で主語と述語の整合性をちょっと崩しているところに詩としての魅力を感じます。

 

ひとつの歌をくり返し聴いて言葉の音について考えた後は文字で歌詞を読みます。ここで、漢字・ひらがな・カタカナ・アルファベットの割合とか、どういう漢字語を使っているかとか、視覚に訴えてくるものを受け止めます。

・言葉数が少なく、ひらがな多め

・言葉数はそこそこ、漢字ひらがなカタカナのバランスが取れている

だいたいこの2つに大雑把に分けて、前者を「八木重吉型」、後者を「高村光太郎型」と、これまたざっくり名付けています。

八木重吉型の代表例は甲本ヒロトさん。ヒロトの歌詞は言葉を磨いて磨いて最小限の芯を取り出していて、でも角を削り過ぎてはいない。

 

 

黄土色の サファリルック

中南米あたりの探検家

捕虫網と虫眼鏡とカメラ

 

探しものが あるのではなく

出会うものすべてを 待っていた

見たいものと 見せたいものばかり

 

 

クロマニョンズ「生きる」の歌い出しですが、最初の3行にごく具体的・現実的・物理的な漢字語とカタカナを並べておいて、次の3行で一気に抽象化する。ヒロトの言葉の吸引力はこの抽象部分にあって、ひらがな多めで言葉の音の強さが際立つ。

リンダリンダ」も文字で読むと、ほぼ「リンダリンダ」で埋まっていて、山村慕鳥の「風景」を思い出させます。「いちめんのなのはな」というフレーズで埋め尽くされた詩。シンプルな言葉のくり返しのリズムが胸に響く。

高村光太郎型は、忌野清志郎さん、泉谷しげるさん、スライダーズのハリーさん、宮本くんがだいたいここに分類されるかなと思います。聞いた言葉と視覚の文字が一致しているというか、活字に強い人たちのように思ってきました。ここが私の好みになります。

私が読んできた詩、明治・大正・昭和の詩を基に考えるので、八木重吉高村光太郎という分け方になるのですが、どちらでもないと思う歌詞が2種類あって、まずひとつは、桑田佳祐さんと星野源さん。作風は違うと思うのですが、私には聞いた言葉と目で見た言葉がなぜか一致しません。歌詞を読むとこんなことを歌っていたの?とびっくりします。耳で聞いた時に意味が取れないんですよね。楽しい音だけが残るというか。この謎は解明中。

もうひとつは藤原基央さん、米津玄師さん。この方たちも作風は違うと思います。が、コアな漫画読みのニュアンスをひしひしと感じていて、サビのところが漫画の見開きのインパクトに似ていると感じるときがある。米津さんの「馬と鹿」の「これが愛じゃなければなんと呼ぶのか 僕は知らなかった」のところとか。生まれた時から漫画を読むのが普通の世代。

漫画を読むとは、字も絵だと認識することだと思っています。かつ、活字と書き文字も区別し調和させる。

例えば、BUMP OF CHICKENの「Gravity」

 

 

わりと同時に くしゃみしちゃうのが

面白かったよ 泣きそうになったよ

 

 

ここなんですけど、漫画の吹き出しのすぐ外側に手書きで「わりと」って書いて、活字で「同時にくしゃみしちゃうのがさ 俺、面白かったよ」、次のコマを大きく取って「泣きそうになったよ」

というようにイメージできるんですよ。別れを知っている・予感している男の子と女の子が一緒に歩いていて、男の子がこう言っている感じ。藤原さんはこの「わりと」のようにリズムを軽く刻む言葉が上手いなあといつも思います。

米津さんは、カタカナ語の由来が知りたいんですよね。日頃、外国語は何に触れているのか読み取れない。ニュースとかではなさそう。もう少し物語性が強いものに接していそう。映画とかゲーム?洋楽の歌詞ともちょっと違うかな。

「カムパネルラ」の「オルガンの音色で踊るスタチュー」がね、ここでスタチューって持ってくるのか・・とうなりました。statue。なかなか日本語の歌詞には出てこないように思います。

「ウィルオウィスプ」というタイトルの曲もありますよね。ジャックオランタンと同義ですが、ウィルオウィスプってどこで習得できる語彙なんだろうとずっと思っています。

それから、米津さんは関西語のネイティブですよね。この要素は言葉のリズムに影響していると推測するのですが、私は関西語とはまったくご縁がないのでよくわかりません。どなたか関西語話者による分析を伺いたいものです。

 

最後に別枠で、ラブサイケデリコが登場した時に、帰国子女によって歌詞の中の英語表現が変わるなと気がつきました。和製英語も面白くはあるのですが、正しい英語を取り込むことで歌詞の幅が広がると思います。宇多田ヒカルさんは言うまでもなく、アレクサンドロスも最近知りました。この先、他の言語も期待したいところです。

 

 

ええと、つらつら書いてきましたが、私の頭の中ではだいたいいつもこんな感じで歌詞や詩が巡っております。おおまかに分類もしましたが、私自身、分類されるのは嫌な方なのでこだわってはいません。一度組み立てたらさっさと解体して先入観が残らないようにしています。

20代の頃はアルバムを買うと、歌詞から読んでいました。メロディを耳に入れる前に言葉だけの音とリズムを知りたかったからです。音楽の聴き方としては邪道だと思いましたが、私には言葉の方が興味があったのでそういう賢しいことをしていました。

今はもうそんな気力もないというか、とりあえず素直に聞こうとだけ思っていて、歌詞を読むのはかなり後回しになっています。肩の力も抜けましたとさ、というお話でした。

 

 

 

では、また。

 

 

槿の国のノラ

二月になりましたね。今回は韓国ドラマについて語ります。

最近見た中で印象に残ったのは「2度目の二十歳」(2015年)です。

チェ・ジウ主演で役名が「ハ・ノラ」。ノラ、つまり、これから「人形の家」をやりますよ、この主人公の自立の話ですよ、と宣言しているのだと思いました。

ノラは高校生の時に大学院生の夫と出会い、妊娠を機に高校を辞めて夫の留学についていき、ずっと主婦業をやってきた。夫はノラに魅かれて結婚したものの、20年も経つと、大学教授の自分と同等の「会話ができない」から離婚したいと言う。ノラは夫と会話ができるようになりたいと一念発起して勉強し、大学に合格する。

大学では教授になっていた高校時代の友人と再会し、昔の自分、夫と出会う前の自分はどんな人間だっただろうかと考える。

夫に否定され続け反抗もできなかった自分にも気がついて「夫は妻の保護者で指導者なんだ」と言われても、その考えはおかしいと反論できるようになる。

というような筋書きですが(ネタバレは避けてます)、深刻になり過ぎず、基本ラブコメ路線なので、気軽に見ることができる佳作ではあります。

が、この十数年で韓ドラもここまで来たかと思ったのは、「妻は夫のもの」という発言を批評的に描いていたことです。

「がんばれクムスン」(2005年)では「結婚したからおまえは俺のものだ」、「宮」(2006年)では「結婚したら妻は夫のものです」という台詞があり、かなり仰天したのですが、この段階ではこの台詞はこのまま、なんの意味付けも批評性もありませんでした。

こういう脚本が素通りすることから考えても韓国の男尊女卑は明らかで、現実には今でも妻を所有物と思う男性もおそらくいるのだろうと思いますが、ドラマの世界は、このハ・ノラの物語のように確実に変わってきたと感じます。最近ブームになった「愛の不時着」(2019年)も男性が女性の意志を尊重していると評判になっていました。

また、「真心が届く」(2019年)というドラマでは男性が女性に「俺を抱きしめてくれ」「なぐさめてほしいんだ」と言っていて、自分の弱さを率直に伝える台詞にしみじみ感動したものです。この男性は検事で、仕事で困難な状況に立たされてしまったためにこういう弱音を吐くのですが、女性も同僚の検事なのでその大変さを十分に理解した上でハグしてあげるのです。「何もわからないけれど受け入れてくれる聖母のような包容力」という男性に都合のよい女性像ではないところがいいです。

 

韓国ドラマの静かな変化を感じ取れるくらいには韓流にのめりこんできたのですが、一番没頭していたのは2006~2011年頃で、仕事から帰ると朝鮮日報とエンタメコリアというサイトを隅々まで読み込み、韓ドラの感想ブログを読みまくり、レンタルDVDでドラマを見まくり、ipodでドラマのサントラを聴きまくり、NHKハングル講座を見聴き倒していました。1日じゅう韓国語を聴いていたい、聴き込みたい、聴き取りたいと思っていました。

段々と落ちついてきて、今ではドラマは月に1、2本、ハングル講座はテレビを流し見、ツイッターで若い子さんのつぶやきから最近のkpopスターの動向を知る日々です(主に誕生日と入隊除隊情報)

朝鮮日報で一番印象に残っているのは、kpopが世界新出を始めた頃、あるアイドルグループの歌について「こんなに中身のない歌詞でいいのか」と書いていたコラムです。「せっかく世界の人々が聴いてくれるのに擬音語ばかりで意味のない歌詞でいいのだろうか」という趣旨でしたが、韓国は音楽誌でもない一般の新聞でこういう意見が普通に語られる社会であり、詩に対する敬意のある文化なんだなと思いました。歌詞について意見を述べること自体が好意と敬意の表明なんですよね。このコラムは擬音語の多い歌詞を否定しているわけではなく、言葉の力を信じているから「もっと良いものを見せてくれ」と期待しているのであり、より心に響く言葉や詩や歌詞を求めるのは普通のことだという認識が前提にあるんだなと思って読んでいました。

ドラマや歌を通して韓国という国を少しでも知ることができたのはとても幸運だったと思っています。自分が韓国について何も知らなかったこと、知ろうとしていなかったことを知り、まだ私が知らない国にも面白いドラマや良い歌があるんだろうなと推測できる余地が持てるようになりました。

 

 

今回は、私がエレカシにアデューしている間にいかに韓流に入れ込んでいたかという話でもあるのですが、本当にエレカシのことは日常的にはまったく思い出しもしなくて、でも冨永くんと宮本くんの病気のニュースはキャッチして黙々と読みました。ただほんとうに黙々と、命に別状はなさそうかな、大丈夫そうかなと思いながら。復活の野音もなぜか日付を認識していて、今日は野音だなと空を仰いだのを覚えています。

エレカシの40代をまるっと見ていないことになりますが、脂がのってさぞやカッコよかっただろうと思います。でも、ずっと追いかけていればよかったとは思っていなくて、むしろ韓流をぐるっと見渡してもなおエレカシが一番いいな、宮本くんが一番好きだなって思ったんだからいいじゃないって感じです。

宮本くんには「愛の不時着」でIU(アイユ、と短く読みます)が歌っている「Give You My Heart」を捧げます。「あなたにあげるものがないから 私の心をあげます」という歌です。韓国ドラマで培ったパッションで今年も宮本好き好き言って参りますのでよろしくおつきあいくださいませ。

 

 

では、また

 

 

さよならはもう言わない

今年最後の宮本話です。

最近一番テンションが上がったのは、宮本くんがananのインタビューで「昔、何していいかわからないから、ひたすら歩くだけというデートをしたことがあった」とおっしゃっていたこと!! https://ananweb.jp/column/ongakutusin/316370/ 

そうか、何していいかわからないから延々歩いたのか!と30数年来の謎が解けました!若い頃にこの話を読んで以来、変わった人だなと思ってたんですよ。あー、すっきりした!何していいかわからないって可愛いなあ、やっぱり宮本くん好きだなって思いました。

今年も宮本好き好き語りをしてきましたが、後半、ちょっと控えめになりました。カバーアルバム「ROMANCE」がアルバムチャート1位になって幅広い層に人気が出て、ツイッターを見ていると宮本くんに恋に落ちる人続出で、こうなると私は身を引くことを考えてしまうんです。新しくファンになった方たちの華やぎを尊重したいというか邪魔したくないというか、つい口をつぐんでどこかの影に隠れたくなるというか。

「今宵」がヒットした時も、それはそれは嬉しくて、やったーメジャーだ全国区だー!と喜んで、でも、これで私が愛さなくても世の中が彼らを愛してくれる、私のような糟糠のファンは身を引きます、それじゃ4人とも幸せになってねアデュー!という清々しい気持ちでエレカシの最前線から2、3歩下がったんですよ。好きではあるので、情報を遮断したわけではなく、遠くから垣間見る感じでした。

今回はアデューはしませんよ。でも、世の中がこれだけ宮本くんを愛しているのを見ると、別に私が好き好き言わなくてもいいかな・・とふっと考えてしまうんです。私の本質はエレファントカシマシの幸せを願う者で、エレカシの本当のさいわいのためならばこの身が燃えてさそり座の赤いアンタレスになっても構わないとさえ思いますので(銀河鉄道の夜・改)、宮本くんが嬉しそうに歌っている姿を見たらそれだけでもう十分、これ以上私ごときが何かを語る必要などないと思ってしまうんです。

今はそんな自分の性格に流されずに、なんとか頑張ってここで書いていこうと思ってます。マザーテレサの言葉を借りると、ファンのエレカシ愛でできた広い海があるとして、私は大海のほんの一滴にしか過ぎないのですが、私がいなければ一滴分だけエレカシ愛が欠けることになる。それは嫌。エレカシ愛の海はどこまでも広がって欲しいので、ささやかな一滴ですが愛を語り続けます。

ところで、宮本くんは世界は目指さないのでしょうか。日本のチャートで1位になったから世界の音楽好きが注目してますよね。宮本くんの声に圧倒されて興味が芽生えてオリジナル楽曲に進む人々が今発生していると思います。歌詞の文学性はヨーロッパで受けそうに思います。特に初期の内省的な歌詞はフランス人とか好きそう。と、勝手な夢を見る私です。

 

ソロ活動について、ネットでファンのいろんな考えを読んで面白かったので、私の考えも書いてみますと、あのう、私がやりたいことをやればいいと思うのは宮本くんだけではないです。冨永くんも高緑くんも石森くんも、それぞれやりたいことがあればおやりになればいいのでは、と私は思っています。各自ソロ活動してもいいですよね。アルバム出してもいいし、コロナが収まったら海外のライブハウスにひとりで行って現地のミュージシャンと演奏してくるとか、音楽活動でなくとも、エルサレムに巡礼に行きたいとか、北極点に到達したいとか、どういう未来だってありうると思うんです。で、4人ともそれをエレカシの活動と同時進行でお願いできたら嬉しいです、と言葉は丁寧ですが割と素人言いたい放題なことを思ってます。

この発想の前提は、エレカシはどうあっても無くならないと思っているからなんですが、人は皆いずれ死ぬということで言うと、4人もいつかこの世から旅立ちますよね。それでもエレカシは無くならないという意味です。エレファントカシマシというのは実在するバンドでありつつ、ひとつの概念でもあるので、エレカシの歌とともにずっと存在し続けるんですよ。美しいという概念が無くならないように、エレカシの歌を聴くことで生まれてくる様々な感情がエレファントカシマシという存在を生かし続けるということです。この軸が私の中にあるので、ソロ活動でもなんでもお好きになさいませ、と思えるのです。

でも、エレカシってほんとに仲良かったんですね(おまえはホントにファンなのか)。宮本くん以外喋らないからそれぞれの考え方がわからないので4人の関係性については推測もしてこなかったんですよ。できなかったというか。仲が悪かったらソロ活動をする上で宮本くんがこんなに苦悩しないだろうなとようやく受け止めました。

更に言うと、私は冨永くん高緑くん石森くんがどんな声でどんな風に話すのか知らないです。石森くんはたまに声を聞くけど、人となりがわかるほど長くは聞いたことがない。ドキュメンタリーがあるそうですが、そこではお話しなさっているのでしょうか。もう最近は知らないままでも面白いかなって思ってたりします。こんなに好きなあの人の、声を私は知らない、ってなんか少女漫画っぽいですよね。

 

 

こんなに好きなあの人の

声を私は知らない

遠目に見るだけの私の恋

いつか聞くことはできるのでしょうか

私の耳がどれだけあなたを求めていたか

体中にその声を響かせる日は来るのでしょうか

 

 

 

うーん、エレカシだと言葉を歌わせやすいなー。4人とも大好きです。よいお年を!

 

 

 

女の子は女の子の仮面をつけない

米津さんのアルバム「STRAY SHEEP」の中から「Décolleté」の話です。

 

歌詞のところどころに荒んだ心情を表す語句が挟み込まれているのが気になっていました。

 

あなたは間違えた 選んだのは見事ヘタレたハズレくじ

祭りはおしまいさ 今更水を差さないで

 

荒れ果てていくユーモア あなたのパパとママは何をしていたの

兎角疲れました 数えるから直ぐに消えて

 

今は らんらんらん 深く眠りにつきたい

月が らんらんらん デコルテを撫でていく

 

名のついた昨日は くれてやるから静かな明日をよこせ

卑劣な隣人を お許しくださいエイメン

 

泣き出すのはノーモア あなたのパパとママはどこへ消えたの

易々と述べんな 他をあたっておくれダーリン

 

 

下線部のところが、けっこうな悪態をついているというか、曲はピアソラ風で哀愁が漂っていて、なぜかおねえちゃんの吐息混じり。歌詞だけを見ると男女どちらの言葉とも取れますが、歌を聴くと女性が主人公のように聞こえます。

 

以前のアルバム「Bremen」に「シンデレラグレイ」という曲があります。

 

 

ねえどうして、そうやってあたしのこと馬鹿にして

優しさとか慰めとか与えようとするの?

その度々に惨めな思いが湧いてきて

どうしようもない気持ちになるってわかってないの?

 

 

このイントロからぐずぐずと相手をなじっていて、

 

思い出したくもないようなことがいつまでも消えないな

ぐしゃぐしゃの頭の中 一つも整理がつかずに

また思い出した

 

怖かったのに 辛かったのに 誰も信じてくれなかったのに

あなただけが その声だけが いつでも笑いかけてくれたのに

 

 

と、全編こんな感じで泣き言を言い通しの歌です。これを聴いた時、シンデレラグレイちゃんは男の子だな、と思いました。男の子が男の子のままでは言えないようなことを女の子の仮面を被って言っている、と感じました。女の子の愚痴の言い方はこんなにグズグズしていなくて、もっと切れがいいというか、覚悟がどこかに見え隠れすると個人的に思うんです。

「女の子の仮面を被る」は、佐藤史生の漫画「バナナトリップに最良の日」に授けられた発想です。米津さんの歌はなぜか佐藤史生のイメージとかぶることが多いんですよねえ。

男の子が男の子のままでは弱音が吐けない、男は強くあらねばならないという世の中は人によっては息苦しいだろうなと思います。

で、「Décolleté」ですが、言ってることは「明日をよこせ」とか「易々と述べんな」とか、いわゆる男言葉ですよね。そこにデコルテという女性の体の美しい部位をイメージさせて、やっぱり女性に擬態しているように思うんですよ。

これは作品世界なので、米津さんがこのままの人だというのではなく、強くたくましい男性像を当然とするのはやめてくださいという秘かな男性の主張を感じるというか、男性が女性性を素直に表に出せない世の中が少しずつ変化していく兆しのようにも思えるんです。米津さん以外の20代男子の歌を聴き込んでないのですが、もしかするとこういう歌詞が増えているのでしょうか、どうなんでしょうか。

 

「STRAY SHEEP」はずっと聴いてます。「迷える羊」の建設現場みたいな音が面白いなあと思っていたら、インダストリアル・ミュージックというカテゴリーがあるのですね。へえー(よくわかってない)。

米津さんの歌詞は、言葉数が多いものと、シンプルであっさりしたものとがありますが、本来は私の好みではない饒舌な歌詞も米津さんのは好きなんですよね。なんでだろうと考えてきたのですが、書き言葉が多いからかなと仮説を立ててみています。ここはもう少し掘り下げたいので来年に持ち越しますね。

 

 

では、また。