私の頭の中の言葉と音

書きたいことを書いて自分の軸を立て直すシリーズ・その3。

私が歌詞をどう聴いて見ているかについて、とりとめないですが書き連ねていきます。

 

歌を聞く時は基本はぼんやり聞いています。先入観を持ちたくないので、何も考えずただ聞くだけです。

聞いている内に引っかかる言葉が出てくる時があり、繰り返し聞いて自分の中の印象の輪郭を探っていきます。自分が何をどう感じているのか、過不足なく受け止めようとします。

具体例として、手嶌葵さんの「ただいま」を挙げます。

 

 

愛していると素直になれば

想いはすべて伝うでしょうか

 

 

この「伝う」がいいなあと思いました。主語の「想いは」から考えると通常は「伝わる」になると思いますが、「伝わる」だと母音が「ウアアウ」とア音がふたつ続くので明る過ぎる印象になると思います。「伝う」だと「ウアウ」でウ音が主体になって音の響きがくぐもった印象になる。こちらの方が、この喪失と悲しみの歌には合っていると思いました。

この後「頬をしずかに流れた星に 祈る願いは叶うでしょうか」と続くので、「伝う」と「叶う」が韻を踏んではいます。が、個人的に韻は踏んでも踏まなくても別にどっちでもいいという嗜好があるのと、韻を踏むという初歩技術よりも、「想いは」「伝う」で主語と述語の整合性をちょっと崩しているところに詩としての魅力を感じます。

 

ひとつの歌をくり返し聴いて言葉の音について考えた後は文字で歌詞を読みます。ここで、漢字・ひらがな・カタカナ・アルファベットの割合とか、どういう漢字語を使っているかとか、視覚に訴えてくるものを受け止めます。

・言葉数が少なく、ひらがな多め

・言葉数はそこそこ、漢字ひらがなカタカナのバランスが取れている

だいたいこの2つに大雑把に分けて、前者を「八木重吉型」、後者を「高村光太郎型」と、これまたざっくり名付けています。

八木重吉型の代表例は甲本ヒロトさん。ヒロトの歌詞は言葉を磨いて磨いて最小限の芯を取り出していて、でも角を削り過ぎてはいない。

 

 

黄土色の サファリルック

中南米あたりの探検家

捕虫網と虫眼鏡とカメラ

 

探しものが あるのではなく

出会うものすべてを 待っていた

見たいものと 見せたいものばかり

 

 

クロマニョンズ「生きる」の歌い出しですが、最初の3行にごく具体的・現実的・物理的な漢字語とカタカナを並べておいて、次の3行で一気に抽象化する。ヒロトの言葉の吸引力はこの抽象部分にあって、ひらがな多めで言葉の音の強さが際立つ。

リンダリンダ」も文字で読むと、ほぼ「リンダリンダ」で埋まっていて、山村慕鳥の「風景」を思い出させます。「いちめんのなのはな」というフレーズで埋め尽くされた詩。シンプルな言葉のくり返しのリズムが胸に響く。

高村光太郎型は、忌野清志郎さん、泉谷しげるさん、スライダーズのハリーさん、宮本くんがだいたいここに分類されるかなと思います。聞いた言葉と視覚の文字が一致しているというか、活字に強い人たちのように思ってきました。ここが私の好みになります。

私が読んできた詩、明治・大正・昭和の詩を基に考えるので、八木重吉高村光太郎という分け方になるのですが、どちらでもないと思う歌詞が2種類あって、まずひとつは、桑田佳祐さんと星野源さん。作風は違うと思うのですが、私には聞いた言葉と目で見た言葉がなぜか一致しません。歌詞を読むとこんなことを歌っていたの?とびっくりします。耳で聞いた時に意味が取れないんですよね。楽しい音だけが残るというか。この謎は解明中。

もうひとつは藤原基央さん、米津玄師さん。この方たちも作風は違うと思います。が、コアな漫画読みのニュアンスをひしひしと感じていて、サビのところが漫画の見開きのインパクトに似ていると感じるときがある。米津さんの「馬と鹿」の「これが愛じゃなければなんと呼ぶのか 僕は知らなかった」のところとか。生まれた時から漫画を読むのが普通の世代。

漫画を読むとは、字も絵だと認識することだと思っています。かつ、活字と書き文字も区別し調和させる。

例えば、BUMP OF CHICKENの「Gravity」

 

 

わりと同時に くしゃみしちゃうのが

面白かったよ 泣きそうになったよ

 

 

ここなんですけど、漫画の吹き出しのすぐ外側に手書きで「わりと」って書いて、活字で「同時にくしゃみしちゃうのがさ 俺、面白かったよ」、次のコマを大きく取って「泣きそうになったよ」

というようにイメージできるんですよ。別れを知っている・予感している男の子と女の子が一緒に歩いていて、男の子がこう言っている感じ。藤原さんはこの「わりと」のようにリズムを軽く刻む言葉が上手いなあといつも思います。

米津さんは、カタカナ語の由来が知りたいんですよね。日頃、外国語は何に触れているのか読み取れない。ニュースとかではなさそう。もう少し物語性が強いものに接していそう。映画とかゲーム?洋楽の歌詞ともちょっと違うかな。

「カムパネルラ」の「オルガンの音色で踊るスタチュー」がね、ここでスタチューって持ってくるのか・・とうなりました。statue。なかなか日本語の歌詞には出てこないように思います。

「ウィルオウィスプ」というタイトルの曲もありますよね。ジャックオランタンと同義ですが、ウィルオウィスプってどこで習得できる語彙なんだろうとずっと思っています。

それから、米津さんは関西語のネイティブですよね。この要素は言葉のリズムに影響していると推測するのですが、私は関西語とはまったくご縁がないのでよくわかりません。どなたか関西語話者による分析を伺いたいものです。

 

最後に別枠で、ラブサイケデリコが登場した時に、帰国子女によって歌詞の中の英語表現が変わるなと気がつきました。和製英語も面白くはあるのですが、正しい英語を取り込むことで歌詞の幅が広がると思います。宇多田ヒカルさんは言うまでもなく、アレクサンドロスも最近知りました。この先、他の言語も期待したいところです。

 

 

ええと、つらつら書いてきましたが、私の頭の中ではだいたいいつもこんな感じで歌詞や詩が巡っております。おおまかに分類もしましたが、私自身、分類されるのは嫌な方なのでこだわってはいません。一度組み立てたらさっさと解体して先入観が残らないようにしています。

20代の頃はアルバムを買うと、歌詞から読んでいました。メロディを耳に入れる前に言葉だけの音とリズムを知りたかったからです。音楽の聴き方としては邪道だと思いましたが、私には言葉の方が興味があったのでそういう賢しいことをしていました。

今はもうそんな気力もないというか、とりあえず素直に聞こうとだけ思っていて、歌詞を読むのはかなり後回しになっています。肩の力も抜けましたとさ、というお話でした。

 

 

 

では、また。