自分の軸を立て直すシリーズ4。
前回に続いて歌詞をどう聞いているかの話です。私のストライクゾーンの方々について語ってみます。
最初は泉谷しげるさんから。「野生のバラッド」
野生のごとく
叫んでられたら
このマチにも
用がなくなる
ここにいる以上
眼つきを変えて
ふるえて眠る
夜を知る
Oh なんてお前に伝えよう ひとりの鏡の中で
誰かをキズつけてきた日々の その時の顔つきで
吠える
Oh なんてお前に伝えよう 騒ぎの好きな俺について
Oh なんてお前に伝えよう 静かに暮らすいらつきを
「静かに暮らすいらつきを」というフレーズが好きです。泉谷さんは私が20代の頃は既にテレビで「暴れる人」としてお茶の間の認知度が高かったのですが、この曲が収録されているアルバム「吠えるバラッド」を聴いて、泉谷さんにとっての「静かに暮らす」ことはテレビで暴れることなんだなと思いました。万人に愛される穏やかで静かな日々。
当時テレビのインタビューで「なぜ『金曜日の妻たちへ』に出演しようと思ったのですか」と聞かれて「自分がいる音楽業界とは違う言葉を使う場所に身を置きたいと思ったから」という趣旨のお話をされていました。
普段とは違う言葉に接することができる場所と、自分の内なる熱を放出できる場所、芯から騒げる場所である歌を歌うことの両輪を必要とされているのかなと思っていました。
普段とは違う「環境」と言ってもいいところを「言葉」とおっしゃったのがなんとも私好みで、こういう知的で理性的な男性と結婚できたら幸せだろうなと思っていたので、友人や同僚に好きな芸能人について聞かれると泉谷さんと答えては「えっ、なんで」「趣味が変だからお嫁に行けないのよ」などと失礼なことを言われてましたよ。泉谷さんの歌は素敵なのよといちいち反論してました。
次はストリートスライダーズのハリーさん。
「のら犬にさえなれない」はスライダーズの代表曲と言ってもいいと思います。
最後のコインは 何に使うのさ
最後のコインで 何が買えるのさ
遊びすぎた夜はいつも 誰かを想ってる
Baby,のら犬にさえなれないぜ
最後のダンスは 誰と踊ろうか
最後のダンスで 誰を誘おうか
うかれすぎた夜はいつも 背中にのしかかる
Baby,のら犬にさえなれないぜ
空は晴れてるのに 雨が降ってるのさ
Baby, baby教えてくれ
こんなことってあるのかい?
疲れたシャツ着て 通りをぶらついて
人混みの中で 水たまり飛びこして
誰もいない夜はそうさ 寝ぐらへ帰るだけ
Baby,のら犬にさえなれないぜ
「うかれすぎた夜はいつも 背中にのしかかる」が好きです。夜遊びしてもはしゃいだ感じはなく、のしかかる重い物を抱えて歩いている青年。最後はちゃんと寝ぐらへ帰る生真面目さを持った人。この真面目さはたぶん、ロックの王道しか歩きたくない、歩けないということだったのかもなとつらつら思いました。
もうひとつ「ありったけのコイン」
ありったけ コインかきあつめて
のんだくれ オマエとどこへ行こう
つかの間の夢でも さがそうか
やってくる朝は あいかわらずさ
かわいてる風が 吹きぬける街
Ah baby, baby どのくらいの願いごとが
Ah baby, baby 空の下にぶらさがってる
今夜オマエに 何を買ってやろう
今夜オマエに 何を見せてやろう
「コイン」はハリーさんの歌詞のキーワードですが、スライダーズが欲しかったのは札束ではなくコインに象徴されるキラキラした何かなんだろうなと感じていました。自分が持っているありったけのキラキラしたものを見せてやろうとしてくれているんだなと思います。「どのくらいの願いごとが 空の下にぶらさがってる」が好きです。壮大な七夕って感じ。
次は宮本くん。デビューアルバムの中の「花男」
きさまに言うこと何もない
聞きたいことも何もない
俺は口もと笑いうかべて
きさまを信じるさ
20代当時、ここに何か共鳴するものを感じていました。言いたいことや、やりたいことを抱えているけれど、どうしたらいいのかまだよくわからない若者の怒りや焦燥、それをこらえて「きさまを信じるさ」と苦い物を飲み込んでいる感じが好きです。
それから「孤独な旅人」
孤独な旅人
いずれ僕ら そんなものだろう
浮雲のように ふわふわと
ここの「いずれ」がたまらなく好きなんですよ。好きすぎてふるふるするというか、わなわなするというか。書き言葉がそっとすべり込んだ感じが芯から好きです。
振り返れば 誰かの声 誰かの影
どこまでも ついて来る 世間の影
つかまえて 勇気づけて 俺を
この3行も美しくて、「どこまでもついて来る世間の影」のところでは、世間に怯えているかのような青年の姿が想起されます。孤独な旅をしているけれどつかまえて勇気づけてほしかったんだな、と宮本くんの若さを今なら冷静に見られる気がします。
そんなナイーブな文学青年も50代になってからの「Easy Go」では
悲しみけむる町の中 孤独にさいなまれしこのハートに
愛と喜びの夢を咲かせるぜ 偶然とノリと思いつきでさあ飛び出せ
孤独でも愛と喜びの夢を咲かせると言い切るところが、もう世間の影が追いかけてきても返り討ちくらいはできそうですよね。
「悲しみけむる」がもだもだ(悶々)するほど好きです。水彩で灰色とベージュに薄く細くピンクを刷いたような町のイメージ。こういう繊細な表現は若い頃と変わらないと思いますが、「偶然とノリと思いつきで」という弾けた言葉が加わるところに年月を重ねてきた余裕も感じます。平たく言うと、宮本年取ったな、年を取ってカッコよくなったなって思って泣き笑いみたいな嬉しくもせつない気持ちになりました。
最後は清志郎さん。「毎日がブランニューデイ」
君と真夜中に話した いろんな事
75%は 忘れてしまった
君と長い間過した この人生
80%以上は 覚えてないかも
Hey Hey Hey でもいいのさ
Hey Hey Hey 問題ない
君がいつもそばにいるから
毎日が新しい
数字という要素も歌詞にはあったな、と思った歌です。%で気持ちを表していって、最後は
今日も朝が来て 君の笑顔を見て
100%以上の 幸福を感じる
100%以上の 幸福を感じる
365%完全に幸福
365「%」と単位をずらしてストンと言葉を落とすところが清志郎さんさすがだなあと思いました。
「君と長い間過したこの人生」というフレーズも効くというか、愛しているとかよりもよほど胸にくる。
次は「デイドリームビリーバー」
ずっと夢を見て 安心してた
僕は Day Dream Believer そんで
彼女はクイーン
あまりにも有名な日本語歌詞ですが、「day dream believer」の訳が「ずっと夢を見て安心してた」ということだと思いました。名詞の訳を必ずしも名詞にする必要はないと理解しました。
「そんで」が「and a(アンダ)」の音の移し替えなのは多くの人が語っていることですが、ミュージシャンにとっては文字も音なんだなと思いました。漫画にとっての文字が絵であるように。
20代の頃はこの方たちが本当に好きで好きで好きでしたね。もちろん今も大好きです。
歌詞は、Oh とか baby とか hey とかが入るので、詩とは視覚の印象がちょっと違いますが、音と声が入ることで歌詞は初めてその全貌を現すと思います。歌詞だけについて語ることは、その歌のほんの一部にしか触れていないのだという自覚をしつつも、今回は私の頭の中で巡る言葉と音についてご披露いたしました。
では、また。