予習 OF CHICKEN

BUMP OF CHICKENのチケットが取れて嬉しくて予習に余念がない今日この頃です。現ツアーのセットリストやアルバムをランダムに聴いたり、最近のシングルをまとめてシングルオブチキンというプレイリストを作ったり。

 

いくつか感想をつらつら書いてみます。

スノースマイル

東京で雪が降った日にXのトレンドに上がっていたのでじっくり聴きました。

 

冬が寒くって 本当に良かった

君の冷えた左手を

僕の右ポケットに お招きする為の

この上ない程の 理由になるから

 

 

カレカノが歩いている情景から入るのですが、この彼女がちょっと面白いと思いました。

 

 

二人で歩くには 少しコツがいる

君の歩幅は狭い

出来るだけ時間をかけて 景色を見ておくよ

振り返る君の居る景色を

 

 

最初はこの男性は彼女の遅い歩幅に合わせて一緒に歩くわけではないんだなと思ったのですが、彼女の方も合わせようとしていないと気が付きました。歌を聴いていると「振り返る」の後にちょっと間があるので、彼の方が先を歩いていて、振り返って後から来る彼女を見ていると聞こえたのですが、活字で見ると「振り返る君」なので彼は意図的に遅れて歩いていて前を歩く彼女が振りかえると読めます。いずれにしても並んで歩いてはいないし、歩幅が合わないことを彼だけが意識しているように思います。

この前の段落での彼女の描写は

 

「雪が降ればいい」と口を尖らせた

思い通りにはいかないさ

落ち葉を蹴飛ばすなよ 今にまた転ぶぞ

何で怒ってるのに 楽しそうなの?

 

 

いや、デート中に落ち葉を蹴飛ばすとか何してんの?「また」転ぶって??彼氏に気持ちが行ってないってこと??彼氏が歩くテンポを調節してくれてるんだから自分も合わせる努力をしたらどうなの??無頓着すぎない??

と突っ込みつつも、こういう女性は友人としては嫌いではないです。とても個性的でいいと思う。でも最後は「僕の右ポケットに しまってた思い出は やっぱりしまって歩くよ 君の居ない道を」って一人になってるのでお別れしたんですよね。カレカノだとそうなるよね。

彼の方は「君と出会えて 本当に良かった」と言っているのですが、彼女はこの思い出をどう思っているのだろうかと思います。歌の時点で20代前半くらいのイメージなのですが、別れたからといって泣き崩れるような感じでもないし、自分の世界がしっかりある人だとも思う。ショックではあっただろうけど悲しいとかつらいとかではなくて、

 

 

今でも時々思い出す 覚えてる

乾いた道を一緒に歩いた日を

ポケットの中は温かかったけど

するりと抜け出して私は道を逸れた

走って追いかければよかったのか

こっちに来てと言えばよかったのか

わからない

わからないまま私はひとり

ひとりでずっと歩いてきたけれど

今になって気がつくことがある

私の笑顔に意味はなかった

自分がなぜ笑っているのかわかっていたら

違うところにいただろう

そばにいるのがあの人ではないとしても

 

 

こんな感じでちょこっと反省してると思いますよ。たぶんね。

 

 

次は「メーデー

最初に聞いた時はライブで盛り上がりそうだなーくらいに楽しく聞いていたのですが、歌詞をよく読んで改めて聴き直して流れるようなストーリー性にびっくりしました。面白い漫画一本読んだような感じ。

 

 

君に嫌われた君の 沈黙が聴こえた

君の目の前に居るのに 遠くから聴こえた

 

発信源を探したら 辿り着いた水溜まり

これが人の心なら 深さなど解らない

 

 

この歌い出しで私はニコルをイメージしていて、目の前にいる女の子が黙ったままで何も見えていないような無表情なのでニコルは心配して(どうしたのかな・・)と思っていると、彼女の言葉にならない声が違うところから聞こえた気がして(えっ、どこなんだろう。探してくるからここにいてね、待っててね)と駆け出すんですよ。

走って走ってようやく発信源の水溜まりをみつける。

(ああ、これだ、ここだ。でも・・深いのかな・・どうかな・・でも・・・)

目をつぶってエイッと飛び込むんですよ、人の心の水溜まりに。

(ニコルとはBUMP OF CHICKENのネコのキャラクターです)

 

 

息は持つだろうか 深い心の底まで

君が沈めた君を 見つけるまで潜るつもりさ

苦しさと比例して 僕らは近付ける

再び呼吸をする時は 君と一緒に

 

 

ニコルはどんどん潜っていって「君」を見つけるんですね。再び呼吸をする時、上に戻る時は一緒だよ、って手を差し出して笑ってくれるんですよ。

「沈黙が聴こえた」「発信源を探した」「辿り着いた水溜まり」この言葉が喚起する場面の流麗な運びが「水溜まり」という体言止めで引き締まるところが美しくてうっとりします。

そして、私がやっぱり藤原さんに聞いてみたいのは「君に嫌われた君」「君が沈めた君」という発想はどこから来たのかということです。これは世代の問題でもあるのか、よく言われる自己肯定感が低いという感覚だと思います。世の中ではいつ頃からか自虐ネタという言葉が流行ったのと関係はあるのでしょうか。バンプより上の世代の歌詞には無いと思うのですが。

ただ、藤原さん自身は水の底でも潜っていけるんですよ。暗い音の無い世界でもどんどん潜っていく強さと明るさがある。そして底にいる人を抱えて上に引っ張り上げる人。衆生を救う人なんだなあと思います。

 

藤原さんの歌詞にはストーリーがあって絵を描きやすいですね。「スノースマイル」の女の子は白泉社系の漫画をイメージしてモノローグ書いてみました。

 

 

いつの間にかBUMP OF CHICKENをすごく好きになっております。そしてなぜか4人とも自分より年上でお兄さんのように感じています。実年齢は息子はさすがに無理だけど弟というには離れすぎているなあというところなんですが、曲を聴いている時は大人のお兄さんたちバンドだと思っています。有明で会えるのが楽しみです。

 

 

 

では、また。

 

 

2023まとめ

今年最後の更新です。

今年はエレファントカシマシのステージを30年振りくらいに見られて幸せでした。会場で足元からエレカシの音が立ち上がってくるのを感じつつやっぱり好きだなあと思いました。

石森くんがツイッターを始めたことも嬉しかったのですが、ええと、なんといいますか、石森くんは手ごわい。と正直思いました。

私は仕事で常にお客様の意向を聞き出さないといけないので、人を見る時に「この人にどう接していけば胸襟を開いてくれるか」を模索します。その視点から、石森くんは手ごわいと感じたのです。

ツイート内容は写真か動画に自分たちの歌の歌詞のみ。写真はツアーメンバーが多く、被写体への愛情を感じます。が、石森くん自身の言葉はありません。今日は寒いね暑いねみんな元気?程度でいいのに、それすらも無い。素の言葉がゼロの相手から考えを引き出すのは困難を極めます。

こういう相手には少しずつ言葉をかけて、時間もかけて、固い大地を耕すところから始めます。現実に会う相手であれば、表情が緩むのを見逃さないようにして、いつでもなんでも受け入れますよと押し過ぎないように言葉にするのですが、石森くんにはツイッターでコメントすることしかできないので、とりあえず可愛らしいファンに徹して顔文字を交えて明るめのコメントをしております。

石森くんさあ、前にNHKで4人で野音でインタビュー受けてた時はさあ、NHKの聡明そうな綺麗な女性アナウンサーさんと並んで歩きながらなんか話してたよね?当時、宮本のインスタに写り込む時は後ろ姿だけでファンには顔も見せないのにその感じのいいアナウンサーさんとは並んでおしゃべりするんだ、ふーん、そう、そういう人なんだ、へーえ。と若干嫉妬の気持ちを抱いたものですが、こういうことを言って追い詰めると余計口を閉ざしてしまいそうな感じがするので、戦略上ニコニコと可愛いコメントをするのです。いつか石森くん自身の言葉がつぶやかれるその日を夢見て。

コメント欄を読んでないかもしれないですが、万が一目にした時に明るい言葉があった方が気分がいいだろうとも思うので、普段素敵な音楽を聞かせてくれてるお礼も兼ねています。

冨永くんも高緑くんもSNSを始めてほしいです。SNSには人格が反映されると思っているのでどんな人たちなのか深く知りたいです。石森くんも結構変わった人だなと思ったけど、より好きになったよ。どんな君らでも愛せるからファンの可愛いお願いを聞いてくれ。

 

それから、スライダーズの武道館で宮本さんを見かけたことについて書いておきます。プライベートでいらしていたので描写するのは失礼なことだとは思いますが、どうしても書きたかったのが、身体に独特の軽みがあったことです。痩せているからではなく、重力を感じない体だと思いました。ステージでの印象とは違いました。

私は階段の下から3段目くらいにいて、すぐ横の通路を宮本さんが歩いていったのですが、2メートルも離れていなかったと思います。宮本だと認識して正味5秒くらい、息を止めて自分を無にして観察に徹しました。ほやっと笑う顔が可愛いとかの感情は後からやってきて、ああ、軽い、体がとても軽い、とそれだけを認識しながら通り過ぎていく背中を見送りました。

ていうか、30年振りのスライダーズでなんで宮本を見てしまうかな、とも思った。今日はスライダーズ兄さんたちと久々に会えるーとかウキウキしていた気持ちをすべて押し流すように「おまえが好きなのは俺だろ」と言わんばかりに宮本本体が歩いてきたので、着席しても気が動転していたし、ハリー兄さんが歌い出すまでドキドキしてどうしようもなかった。スライダーズの音を聴いたらなんとか落ち着きました。

 

最後に1988年渋谷公会堂ライブを映画館で見たことについて。

今の私の年齢でデビュー当時のエレカシを見ると、いかにも未分化の青年たちだなと思った。まだ何者でもない、何者にもなれる年頃。宮本くんのトークも若干ウザがらみウザ太郎なところがありますよね。上着を片づけてくれたら「ありがとう」、観客から声がかかったら「ありがとう」って言いなさいっお礼を言って損することはないのよって今の私だったら宮本小僧に説教しそう。それでうるせえって大反発されそうだな、などと思いつつ、「夢の中で」の「明日のことなど 考えずにそうさ 考えられずに」のくだりではふるふる震えるくらい魂を奪われた。

ちょっと解説していいでしょうか。ビートルズの「Help!」の歌詞で

When I was younger, so much younger than today

のところですが、When I was younger than today とyoungerを1回言えばわかるところを、重ねるように so much younger と加えている。今よりも若かった、本当にもっと若かった頃はね、とためらいと追憶が言葉を一瞬区切っている。素直にストレートに物を言わない、言えない人の言葉使い。考えながら言葉を選びながら話す人の間合い。これは単純な言葉の重複ではなく、思考の跡。「考えずにそうさ 考えられずに」も同じで言葉にためらいのリズムがある。それが音に乗っていく。こういうところを好きになったんだった、と最初の気持ちを思い出しました。

 

今年はエレカシ関係は恵まれていたと思います。恵まれ過ぎて罰が当たりそうなので来年は大人しくすごしたいと思います。

エレファント4は紅白頑張ってね!楽しみにしてます!!

そしてこのブログをたまたまでもお読み頂いたすべての方に御礼申し上げます。お一人お一人に私の言葉よ届けという思いで書いております。来年もお読み頂けましたら幸いです。

それでは、よいお年を!

 

 

エレカシ35

エレファントカシマシ35周年改めておめでとうございます。諸々感想書いていきます。

 

新曲「No more cry」「Hello. I love you」について

大河のフィナーレ感があるなと思いました。青年期の急流を経て広くゆるやかになった川辺に立つ人の、最後の海に辿りつくまでこの情熱の灯が消えることはないという確信を静かに歌い上げる歌だと思いました。

歌詞で好きなところは、

 

No more cry 浮世にひとり

No more cry 喜び求めて

 

ここなんですが、ひとりの孤独はただ淋しいものではなくなっている。深呼吸して心身にエネルギーを満たしていく時間のような感じがします。

「夢よもう一度 我が胸を焦がして」「この空の下で heartがうたうよ」のように言葉のひとつひとつが優しい。多くを語らずただ音と声が空に広がっていく美しい歌だと思いました。

 

「Hello. I love you」の方は多くのファンが指摘していますが「だが人生は all night long」と逆接の接続詞から始めるところが面白いですね。デビューして35年の来し方を振り返れば、売れなかったり売れたり、ステージで笑ったり怒ったり客に憎まれ口叩いたり、でも今年のアリーナツアーでは自分たちが愛されているとようやくわかってくれたり野音では愛してるぜとようやく言ってくれたり、少し愚かで無謀で、でも最高に輝かしかった日々に4人揃ってくるりと背をむけて前を向いたのが「だが」なんだと思います。だが俺たちはこの先へ行く。世の中よ、日々よ、人々よ、俺たちの I love you を聴いてくれ。これがエレファントカシマシのラブソングなんだなと思う。愛のスケールがでかい。

この後の歌詞は意味がつながらない言葉が羅列されていてとても楽しい。ビックリ箱から言葉がぽんぽん飛び出してくるみたい。そしていつになく英語が多い。違っていたら申し訳ないのですが、イギリスに行った後に作詞しました?英語が耳に入る環境にさらされて、それが歌詞に表れたのではないかと推測しました。全然違ってたらごめんね。

 

 

「No more cry」初回限定のドキュメントDVDについて

4人とも喋っていたのが嬉しかったです。10分でもとても濃くて満足でした。

どのバンドも大抵は誰かひとり(ボーカル率高い)がインタビューを受けていますが、その人の視点で語られることがバンドのすべてではないと思うので、エレカシに限らずバンドメンバー全員に話をしてほしいものです。インタビューに必要な時間、費用、手間暇など実務上の都合が何かあるんだろうなと思いますが、私はエレカシデビュー当時から宮本のインタビューがエレファントカシマシのすべてだとは思っていないので4人万遍なく話が聞きたいです。普段は秘めている「4人を知りたい」という煩悩にこのDVDが着火した感じです。

 

 

10月8日野音について

配信で見ました。アーカイブもくり返し見ました。去年に続き、宮本くんが今ここにいると思いました。遠い明日でも過去でもなく、今ここで歌っている。今年は年相応のおじさんっぽかった。そしてそれがとても素敵だった。

セットリストは繊細でエモーショナルだったと思う。アルバム「Wake Up」からの曲が無かったのも個人的には納得。「Wake Up」の中の「神様俺を」では「迷惑かけないように道の端を歩いています」とか「神様俺を どうか見捨てないで」とか弱々に弱った歌詞があったりするので今のエレカシとはモードが違うと思っています。

野音で歌った「流れ星のやうな人生」にも「神様ぼくを見て」というフレーズがありますが、こちらは「今の自分を信じてみなよ」で締めくくられるので趣が異なります。

1988年渋谷公会堂コンサートを映画館で見た後だったので、35年の年月が気が遠くなるほどにも感じたり、花男の華やかさにあまり変わってもいないかなと思ったり、ほんとになんでこんなにエレファントカシマシが好きなんだろうと幸せな気分になれた野音でした。

 

 

最後にアビーロードスタジオでの「宮本浩次独演会」について

とても素敵なライブでしたが、あの、えーと、私が何を思ったかというと

「この人をおいて先に死ねない」

と思ったんですよね・・。なんでしょう、この感想。さすがに自分でも引きましたね・・。

例えるならば結核を患って入院している妻が足繫くお見舞いにくる夫を見て本当に自分を心配して心労を抱えている姿に申し訳がなくて、泣き虫のあなたが我慢して笑顔を作って私の元を訪れるのがつらい、誰もいないところでは泣いているだろうに私がはかなくなってしまったらこの人はどんなにか苦しむだろう、涙は枯れることを知らずこの人の身を苛むだろう、ああ、私は死んではいけない、この人より先に、この人をおいて死んではいけない、きっと元気にならなくては、この人の涙を拭うのは私しかいないのだから。

という感じですかね。いや大丈夫ですよ、私の頭。自分が受けた印象を創作に変換できる程度には冷静ですので。こういう気持ちにさせる魔性が宮本浩次にはあるということです。

このライブには現地の女性4人のストリングスチームも参加していて、宮本さんが挨拶をしている映像も流れたのですが、宮本さんは ‘ please take care of me ’(僕の面倒をみて) と言ったんですよね。一体なぜこのフレーズを選んだのだ、宮本よ。宮本の個性にぴったりじゃないか。ストリングスのお姉さんたちは思わず笑っていましたが、きっとこのお姉さんたちも「あたしたちが何とかしてあげなきゃ!」と思ったに違いないです。ええ、きっと。なんかもう宮本さんは世界のどこに行っても愛されるだろうなあと確信しました。

宮本さんのインスタで「ロンドン(少しパリ)日記」としてその時の心情を語られています。写真も文章もとても素敵です。(とても素敵ですのでご覧くださいませ、と最初書いたのですが、これも結核の妻気取りっぽく読もうと思ったら読めるか・・と恥ずかしくなって書き直しました)(結核の妻はその後完治しふたりは末永く幸せに暮らしました。どちらが先に旅立ったのかは知りません)(完)

 

 

 

では、また!

 

 

今更のオアシス

サマーソニック配信のリアム・ギャラガーを見て魂を奪われたので今更ながらですがオアシスの歌詞について感想を書いてみます。作詞はお兄ちゃんのノエルさんですね。

Don’t look back in anger について前々から思っていたのですが、slip と slide がキーワードかと思います。

歌い出しのところから

 

Slip inside the eye of your mind
Don’t you know you might find
A better place to play

 

心の中に入って見て

そうすればもっと良い場所が見つかるかもしれない

 

超有名なサビのところ

And so Sally can wait, she knows it’s too late as we’re walking on by
Her soul slides away, “But don’t look back in anger,” I heard you say

 

サリーは待ってる

もう遅いと知っているけど

それでも一緒に歩きながら

彼女の心はただ過ぎていく

「でも昔のことはもう怒らないで」

君の声が聞こえたよ

 

slip も slide もすーっと滑り込んでいくイメージで、正面から立ち向かう表現ではないんですよね。最初のアルバムには「Slide Away」というタイトルの曲もあるので、この2語はノエルさんの好みなのではないでしょうか。S音も好きなのかも。

私には昔からサビの so Sally can wait のところが炭酸の泡がしゅわわっと浮上するように聞こえます。

暗い部屋の暖炉のそばから立ち上がって夏の盛りの外に出たらサリーが待っていたんじゃないかなと想像して、その時のこみ上げる感情と、気泡が一斉に上がる炭酸水のイメージが重なります。

 

「Champagne Supernova」という曲も炭酸ですよね。

 

Someday you will find me
Caught beneath the landslide
In a champagne supernova
A champagne supernova in the sky

 

いつか君は地すべりに埋もれた僕を見つける

空には炭酸のように弾ける超新星

 

土の中の闇と超新星のまばゆい光の対比。ポンっと栓が飛んでシュワシュワあふれて光の中できらめくシャンペイン。ここでも land”slide” ですね。slide は無意識に好きな言葉ですね、きっと。

「炭酸」は私が好きなイメージなのですが、オアシスの曲はとても炭酸ぽいなと思ってきました。そして改めて歌詞をいろいろ読んでみると、言葉がシンプルで整然としているなと思いました。

 

There are many things that I would
Like to say to you
But I don’t know how

Because maybe
You’re gonna be the one that saves me
And after all
You’re my wonderwall

(Wonderwall)

 

君に言いたいと思っていることがたくさんあるんだけど

どう言っていいかわからないんだ

だってたぶん君は僕を救ってくれるから

やっぱり君は僕のワンダーウォールなんだ

 

難しい語彙無し、構文は文法通りで詩的跳躍は無し。とても読みやすく聴きやすいと思います。言ってることは内向的な青年のつぶやきのよう。

 

 

超メジャー曲の和訳は緊張します。既にいろんな解釈がなされてきただろうから。語彙、文法は辞書で確認し、ネットでいろんな方の訳にも学びつつ、自分が聴いたイメージに近い形に意訳しました。ワンダーウォールの漢字語化は諦めました。wonder は訳すの結構難しいと思う上に、なぜ wall なんだろう・・英語圏における wall とは・・ともやったままなのでしばらく調べたり考えたりします。

 

では、また。

 

 

スマホライトが照らすもの

コンサートにおけるスマホライト案件、スライダーズ5月3日武道館の話から入ります。

アンコール1曲目「のら犬にさえなれない」の演奏中に会場のあちこちでスマホライトがぽつりぽつりと灯りはじめました。

この曲は、「遊びすぎた夜」「うかれすぎた夜」「誰もいない夜」に「のら犬にさえなれない」とひとりごちる夜と、「空は晴れてるのに 雨が降ってるのさ」「傘の中からじっと 雨を見てたのさ」と天気雨の昼間の光景が交互に現れます。遊ぶ友がいないわけでも帰るねぐらが無いわけでもないけれど、傘の中からひとりで外を見ている青年は孤独を抱えている、そんな歌。

客席に灯ったライトは決して大きな波になることはなく、都会の夜空の星のようにまばらに瞬いていました。それはあたかも、孤独な夜も空を見上げてください、私たちはここでずっと待っていましたよと20年以上の時を経てファンがスライダーズに返した愛情のようでもありました。

 

演奏中のスマホライト点灯は多くのコンサートでは禁止事項だと思います。が、ルールにおいて大事なことはふたつ。守ることと、それ以上の価値観を探ること。

この時は曲を熟知した上でのルール越えだったと思います。ファンであることの自信と誇りと勘に裏打ちされていたのではないでしょうか。かつ、ライトが程よくまばらだったのは中高年のファンが多くてスマホを使いこなせていない、あるいは最近のコンサートでは主にアンコール待ちでスマホライトをかざすことが結構あるという使い道を知らない(私はこっち)という要因もあったかと推測します。スライダーズ兄さんたちとスタッフの方たちはどう思われたか知りたいところですが、兄さんたちも楽しんだと思います(ファンであることの自負による言い切り)

 

複製技術時代の芸術は主催者も観客も考えるべきことが増えていると思います。演出妨害、無断撮影、ネットでの拡散。ルールの制定は致し方ないことだと思いますが、スマホがどうであるかというよりも、根本的には芸術鑑賞とはどういうものかという視点が必要かとも思います。こういうと難しく聞こえるかもしれませんが、普段スマホで聴いてる音楽を実際の演奏で聴くとこんななんだ!とか、ドラマで見ていた役者さんが舞台ではたくさん汗をかくんだなあとか、ゴッホは絵具をもりもりに盛ってるなあとか、実物に触れた時の自分の素直な気持ちを大事にすることが第一歩でありその先にも必要なスタンスだと思います。

文化的体験は都会の方が経験値が積みやすいのは否めないものの、地方で何もできないということはないと思っています。

東京に住んでいると山は見えませんが、他の地域ではたいてい山が身近に見えると思います。自分がいつも見ている山を知るんですよ。季節や天気によって変わる色を眺めたり、展望台まで登ったり、登る道中の気温や風にそよぐ木々の緑を感じたり。そうすると、セザンヌのサント=ヴィクトワール山を見た時に何かを感じると思います。ふるさとの山に向かいて言うことなしなのか、国破れて山河在りなのか、うちの地元の山より緑が暗いなあとか。唯一無二の対象と唯一無二の自分の気持ち。ここに無断で複製技術を介在させることがいかに野蛮な行為か、自分のサント=ヴィクトワール山があれば歯止めになる、と思うのは理想に過ぎるでしょうか。

最後に身もふたもないことを言うと、コンサートでも演劇でも撮影可能な場所と時間帯を設定する方が観客のガス抜きにはなるだろうなとは思います。足を運んだ証をSNSに記録し共有する、そして見返して反芻することは止められない快楽だからです。スライダーズも終演後は撮影可だったのでステージを写している人は多かったです。私は天井桟敷の席から会場全体をぼんやり眺めていました。スマホで撮ろうかなと思ったけれど、まあいいか、と何もせずに帰りました。単に仕事の疲れが残っていたので元気に行動できなかっただけですが、今はこうやってブログに記録を残すこともできるので、やっぱりまあよかったか、と思っています。

 

 

では、また。

 

 

「医」に携わる方々に心からお礼を

私はコロナは何も落ち着いていないと思っています。マスク、手洗い、換気、三密を避けるをずっと守っています。ウイルスに関して何の知識もない私は専門家の話に学ぶしかないと思っています。

私の仕事はお客様が存在するサービス業ですが、世の中で感染者が増えるとお客様の感染者も増えます。働く側がマスクを付けることはうつさない・うつされないためだと思っています。人にうつさない効果の方が大きいとは学びましたが。

職種によって感染対策の軽重は違うのではないかと思います。多くの人と接することがなかったり、仕事中にほぼ話さなかったりすると、マスクを外しても自分も周囲も問題はないのかもしれません。個人の生活様式によっても三密が発生しにくいとか個々に異なると思います。

つまり今は、自分の生活環境に応じてコロナに感染しないようにするためにはどう行動するかを検討することが個人の判断にゆだねられた段階と理解しています。

ウイルスは死滅していない、ワクチンは重症化を防ぐ、特効薬はまだない、感染しても早期に対処すれば回復はできる、後遺症に苦しむ人がいる等々、ネット上で複数の専門家の話をずっと読んでいます。マスクは外しても大丈夫とは誰も言っていない。私の住む地区の役所からのメールで救急車の出場率が高まっており逼迫していると通知が来た。

くり返しますが、私はコロナ初期から専門家が言っている基本的な対策をまだまだ続けます。多くの専門家がもう大丈夫と言い始めたらマスクを外すことを検討します。用心深いのですぐには外しません。まず検討からです。

 

コロナ禍が始まってから、本当に多くの「医」に携わる方々の話を読みました。本来ならば講演会で有料で伺うべき話や、病院で診察してもらう際に聞けるような話など、素人がひとりでは学べないことをネットを通して知ることができています。多くの専門家がコロナ診療に忙殺されながらも発信を続けてくださったからだと思っています。

「医」に携わる方々、という書き方しかできないのは、病院のことを私が何も知らないからです。病院外でもワクチンを開発したりいろんな方がいると思いますが、よくわからないので「医」と大きくまとめました。

「医」に携わる方々にこれからも可能であれば学ばせてもらいたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

また、コロナ禍の過酷さゆえに「医」の現場から離職した方々もお疲れ様でした。戦場のような職場に同志を残して去ることには複雑な感情があったかと思います。が、仕事を辞めることは逃げることではないと私は思います。仕事を続けるのも辞めるのも、どういう職種でも状況でも自分で判断していいことです。どうか後ろめたさなど持たれませんように。「医」のことは何も知らないのですが、自分なりに長く仕事をしてきた経験からそう推察しました。

 

以上です。

 

 

ロックの手拍子 表か裏か

ロックコンサートにおける手拍子について考察を少々。

BUMP OF CHICKEN の藤原さんが「若い頃に演奏を中断して手拍子を止めたことがあったが、手拍子自体は嬉しいけれど歌いにくかった。それを当時は上手く言えなかった」と今年のツアーで話されていたそうです。「学芸会じゃないんだよ」と手拍子を止めさせた昔の発言はキレたと受けとめられて、長年のファンでも藤くんは手拍子が嫌いだと思っていたらしい。ということをBUMP新参者の私はネットで学びましたが齟齬はないでしょうか。大丈夫でしょうか。

宮本さんも6月12日のバースディコンサートで手拍子を止めてほしいとやはり演奏を中断された。曰く、君たちのリズム感が悪い、手拍子が反響して歌いにくい、こういうことを言うと圧迫感があるだろうかと穏やかにご説明なさったそうです。

今回言いたいのは藤原さんのキレていた時代に出会いたかった(私きっと大喜び)とか宮本も丸くなったなとかそれならそれで最初からそう言おうぜでもそう言えなかったかつての君らも愛おしいぜとかではありません。

ロックコンサートにおける手拍子問題を私が最初に認識したのは、ざっくり30年前、スライダーズの蘭丸さんとバービーボーイズ(確かコンタさんだったかと)とのラジオでの対談です。ブルース調の曲に表の手拍子が来ることに困惑すると両者合意していて、ミュージシャンてのはステージ上でそういうこと思っているんだなあと知ったのが事始めです。

この時にもうひとつ思ったのは、洋楽優位の発想だということ。洋楽がきっかけでこの道に入ったのだろうし、そういう発想になってもしょうがないかなとは思いました。

手拍子の表裏については、いろんなミュージシャンが演奏を止めて客に訴えているらしいです。ネットをちょっと検索しただけでもわかります。訴え方は様々で、キレる人もいれば丁寧に説明・指導する人もいる。そこでよく言われるのは「演歌は表でいいけどロックは裏で」。ロックコンサートを選んで来る客は演歌をよく聴いている層とはかぶっていないと思います。自分たちはロックを演奏していて、ファンもそのロックを普段よく聴いていて、それでも表の手拍子が来るのはなぜかと考える必要性を感じます。演歌と対比させることはちょっと短絡的ではないかなと思います。

また、思い出したのですが、長渕剛さんはかつてベストテンで「順子」を途中でやめたことがありましたよね。これは失恋の歌だから手拍子はやめてほしいと。当時子供だった私は途中でやめることそのものにビックリして、でも、歌詞の内容が手拍子と合わないというのはなるほどなあと納得したことを覚えていることを思い出しました。あれからどれくらい経ったのですかね。沈む夕陽をいくつ数えましたかね。

 

ミュージシャンの主張を整理しますと

・手拍子をしてほしくない曲がある

・手拍子は表と裏の使い分けが必要

・リズムだけではなく歌詞の内容によっても手拍子してほしくない

・合わない手拍子は歌いにくい

・手拍子自体が嫌なわけではない

 

観客としての私の疑問は、なぜ30年もの長きに渡ってこれらの問題が前進していないのかということです。スライダーズとBUMPなんて世代が違うバンドがなぜ同じことを言っているのか。

・客に対する啓蒙が行われてこなかった

・客も能動的に学んでいない(キレた事象に引いてしまうだけ)

・洋楽優位の枠から外に出ていない(わかる人だけわかればいいという思考の停滞)

・実はあまり問題だと思われていない(曲を止めてまで訴える姿を見ても?)

 

更に、最近の若いミュージシャンは洋楽で育っていない人たちも出てきていますよね。漫画、アニメ、ゲームの方に近い世代。この方たちのライブでは手拍子はどうなっているんでしょうか。

また、ミッチー(及川光博さん)の公式グッズにLED付きの「光るタンバリン」というものがあり、「バラード曲以外でご使用ください」と注釈がついていますが、ミッチーのファンはどこでタンバリン鳴らすべきかを熟知しているのでしょうか。手拍子より難易度高いように思うのですが大変興味をそそられております。

 

大好きなミュージシャンに手拍子はやめてくれと言われると「自分はこの人の歌を理解できていなかったのかな」「そんなに音楽のこと詳しくないしどうしたらいいのかな」と戸惑うファンも多いと思います。が、観客の姿勢としてはミュージシャンの言うことをそこまで真に受けないというのもひとつの方法かと考えます。

やめろと言われたらやめることはやぶさかではないけれど「応援したくて手拍子したのに」とか「こっちの曲では手拍子要求するんだわかったよやってやるよ」くらいの率直な感想を大事にしてよいと思います。

「真に受けない」とは、相手に忖度もせず翻弄もされないことであり、物事を客観的、あるいは俯瞰して見ることでもあると思います。この視点でステージに立っている人の価値観を理解する、つまり、この人はどういう人なんだろう、この歌をどんな気持ちで歌っているんだろうと思い巡らせる楽しみ方と言いましょうか。手拍子はその全体像の中の一案件として考えればよいかなと思います。

 

 

ロックコンサートについては、スマホの使用とスマホライトについてもいろいろ意見があるようですが、長くなるので別途書くことにします。

 

では、また。