ミヤジという名の少女

宮本浩次さんのカバーアルバム「ROMANCE」の感想です。

同世代の私には比較的新しい「First Love」以外は全部歌えます。ベストテンを毎週見ていたので、聖子ちゃんの歌う姿とか久保田早紀さんがピアノを弾くところもよく覚えています。あの頃、宮本少年も同じようにテレビを見ていたのだろうなと思うと、なんというか、伏線回収(?)という気分です。「この可愛い少年がやがてこの歌を全国津々浦々に再び響かせる日が来ることはまだ誰も知らない」って感じ?

選曲は宮本くんの生年の1966年からエレカシがデビューする1988年までの曲が中心になっていて、インタビューでは「人にプロデュースされたり、自分の曲でも何でもない大名曲をテレビで歌ったりすることで、自分が解放される感覚があるんです」とおっしゃっています。(ザテレビジョン https://thetv.jp/news/detail/1010885/ )

それがなぜ解放になるのかを考えてみた時に、これらの歌はエレファントカシマシを知らないからだと思いました。エレカシ宮本浩次も知らない歌は宮本くんに忖度もしないし容赦もない。名曲に全力で挑むしかないし、思う存分挑むことができるとも言える。

人間50歳を越えて、エレカシに「大御所」「日本を代表するロックバンド」という冠が付くようになった今、宮本くんに異を唱える人は少なくなっていると思います。仮に何か間違ったことをした時に「それはおかしいですよ、宮本さん」と言う人はどのくらいいるのでしょうか。

エレカシの曲をいろんなミュージシャンがカバーしたアルバムも出ていて、それだけの音楽を4人が生み続けてきた証左でもあり、ファンとしてもエレカシが世の中に愛されているのを見るのは感慨もひとしおではあるのですが、4人が全力で放った音を本気で対等に打ち返すものが少なくなっているのではないかとも思えるのです。

これはいろんなジャンルのいろんな職種に共通したことだと思います。自分はひとつの成功を得た、しかし切磋琢磨する相手は少なくなってしまった、周りを見ても若い人々が自分を遠い存在として扱う、対等に話せる相手はどこにいったのか。年を取ると仕方がないことかもしれないが、では自分の内にまだあるこのエネルギーはどう扱えばいいのか。気力も体力も落ちていく中でどうあがけばまた新しい道につながるのか。

人の歌をうたうことは人の言葉を歌うことでもあります。ずっと自分の言葉を歌ってきた宮本くんが問答無用の名曲の歌詞に身を委ねることは、どれだけ本気を出しても揺るぎない相手に向かっていく楽しさがあるのではないだろうかと思います。

少年時代に好きだった歌が懐古調にならないのは、宮本くんが常に挑んでいるからであり、名曲に今の息吹を吹き込んでいるからだと思います。「First Love」はエレカシが存在して以降の歌ですが、英語詞が宮本くんを容赦しないと思います。

宮本くんがソロをやろうと思ったのも、バンドで成功を手に入れたがゆえの閉塞感を打破したい、ここで止まりたくないという気持ちもあったのではないかな、と推測してみたのですが、うーん、違うかな、どうかな。

 

このアルバムの中の宮本くんは、真綿のような真っ白な少女だと感じました。今までは宮本くんが女の子になったら小悪魔ミヤジちゃんになると常々思っていて、自分の可愛さと魅力をよくわかった上で男の子をバンバン引っかけるような小悪魔ミヤジちゃんで、そういう自分を隠しもせず男の子たちとの武勇伝をあっけらかんと話すので女友達にも好感度が高い。こんな感じかなと思っていましたし、そういう一面もないことはないと思うのですが、カバー曲を聴いて、こんな純白の乙女だったんだなあと新しい姿を見せてもらった思いがします。ミヤジちゃんと友達になりたいという女子魂と、ミヤジちゃんを何がなんでも彼女にしたいという男心の両方がぶわっと湧き出てきました。泣き虫ミヤジの涙はあたしが全部ぬぐってやるから心配するな、って性別がころころ変わりながら宮本くんを愛するバリエーションが増えた気がします。

 

 

 

では、また。