スマホライトが照らすもの

コンサートにおけるスマホライト案件、スライダーズ5月3日武道館の話から入ります。

アンコール1曲目「のら犬にさえなれない」の演奏中に会場のあちこちでスマホライトがぽつりぽつりと灯りはじめました。

この曲は、「遊びすぎた夜」「うかれすぎた夜」「誰もいない夜」に「のら犬にさえなれない」とひとりごちる夜と、「空は晴れてるのに 雨が降ってるのさ」「傘の中からじっと 雨を見てたのさ」と天気雨の昼間の光景が交互に現れます。遊ぶ友がいないわけでも帰るねぐらが無いわけでもないけれど、傘の中からひとりで外を見ている青年は孤独を抱えている、そんな歌。

客席に灯ったライトは決して大きな波になることはなく、都会の夜空の星のようにまばらに瞬いていました。それはあたかも、孤独な夜も空を見上げてください、私たちはここでずっと待っていましたよと20年以上の時を経てファンがスライダーズに返した愛情のようでもありました。

 

演奏中のスマホライト点灯は多くのコンサートでは禁止事項だと思います。が、ルールにおいて大事なことはふたつ。守ることと、それ以上の価値観を探ること。

この時は曲を熟知した上でのルール越えだったと思います。ファンであることの自信と誇りと勘に裏打ちされていたのではないでしょうか。かつ、ライトが程よくまばらだったのは中高年のファンが多くてスマホを使いこなせていない、あるいは最近のコンサートでは主にアンコール待ちでスマホライトをかざすことが結構あるという使い道を知らない(私はこっち)という要因もあったかと推測します。スライダーズ兄さんたちとスタッフの方たちはどう思われたか知りたいところですが、兄さんたちも楽しんだと思います(ファンであることの自負による言い切り)

 

複製技術時代の芸術は主催者も観客も考えるべきことが増えていると思います。演出妨害、無断撮影、ネットでの拡散。ルールの制定は致し方ないことだと思いますが、スマホがどうであるかというよりも、根本的には芸術鑑賞とはどういうものかという視点が必要かとも思います。こういうと難しく聞こえるかもしれませんが、普段スマホで聴いてる音楽を実際の演奏で聴くとこんななんだ!とか、ドラマで見ていた役者さんが舞台ではたくさん汗をかくんだなあとか、ゴッホは絵具をもりもりに盛ってるなあとか、実物に触れた時の自分の素直な気持ちを大事にすることが第一歩でありその先にも必要なスタンスだと思います。

文化的体験は都会の方が経験値が積みやすいのは否めないものの、地方で何もできないということはないと思っています。

東京に住んでいると山は見えませんが、他の地域ではたいてい山が身近に見えると思います。自分がいつも見ている山を知るんですよ。季節や天気によって変わる色を眺めたり、展望台まで登ったり、登る道中の気温や風にそよぐ木々の緑を感じたり。そうすると、セザンヌのサント=ヴィクトワール山を見た時に何かを感じると思います。ふるさとの山に向かいて言うことなしなのか、国破れて山河在りなのか、うちの地元の山より緑が暗いなあとか。唯一無二の対象と唯一無二の自分の気持ち。ここに無断で複製技術を介在させることがいかに野蛮な行為か、自分のサント=ヴィクトワール山があれば歯止めになる、と思うのは理想に過ぎるでしょうか。

最後に身もふたもないことを言うと、コンサートでも演劇でも撮影可能な場所と時間帯を設定する方が観客のガス抜きにはなるだろうなとは思います。足を運んだ証をSNSに記録し共有する、そして見返して反芻することは止められない快楽だからです。スライダーズも終演後は撮影可だったのでステージを写している人は多かったです。私は天井桟敷の席から会場全体をぼんやり眺めていました。スマホで撮ろうかなと思ったけれど、まあいいか、と何もせずに帰りました。単に仕事の疲れが残っていたので元気に行動できなかっただけですが、今はこうやってブログに記録を残すこともできるので、やっぱりまあよかったか、と思っています。

 

 

では、また。