自由、とは

今年の書き始めはエレカシの「自由」(2018年)です。

 

 

外に出りゃあビルの合間に月浮かび

気にかかる仕事を終えた帰り道

電灯に照らされ若葉おもたげ宵の公園

初夏の風を吸い込む

 

 

空いている真夜中の首都高

明日が休みだって日の前日の夜

電話に久しぶり思いもよらぬ友から気分の良さげな便り

長くかかって1冊の本を読み終えた時

 

 

 

「自由」というタイトルでこの歌詞、おそらく多くの方が「枕草子だ」と気がつくと思います。宮本さんご自身もインタビューでそう意図したとおっしゃっています。

私は「若葉おもたげ」がすごく面白いと思ったというか、この言葉に捕まったという感じです。若葉であれば、明るい緑だったり、昼間の輝きだったりするのが一般的に採用されるイメージだと思うのですが、初夏の月夜の公園でおもたげに揺れる若葉は、仕事で疲れた人の気持ちに寄り添っているのかなと思います。さりげなく歌っているけれど、成熟した視点・感性ですよね。

 

清少納言は、仕事が終わって明るい気分になることや、友からの良い便り、本を読み終える喜びは知っていたと思います。

でも、これらの感情に「自由」という名前があることは知らなかったと思う。千年前の女性の生活は今よりもはるかに制約が多く、それを疑問視すらしにくい社会制度だったと推測できます。漢詩の知識を持った女性が十分に力を発揮するのは難しかっただろうし、一方で和歌の名家に生まれてプレッシャーを感じていた清少納言は「和歌なんて詠みたくない」と思っても、貴族社会の常識として詠まないわけにはいかなかった。サビついたネジがいつも体のどこかにはめ込まれているような気持ちを抱えていたのではないかと思います。

清少納言の生年は966年頃と言われているそうですが、千年後の1966年に生まれた宮本くんが、枕草子に「自由、とは」という項目を書き継いだことで、不自由だと自覚することもままならなかった日常の中にも自由を感じる瞬間は実はあったのだな、と、ちょっとだけ心のなぐさめになったかもしれません。清少納言や当時の女性たちの。

きっと、清少納言はどこからか見ていて、「首都高って何かしら?」と思っていると思いますよ。「千年たっても月は綺麗なのね、よかったわ」とかね。

 

 

 

 

では、また、今年もよろしくお願いいたします。