米津玄師「Flamingo」「TEENAGE RIOT」感想

「TEENAGE RIOT」をオスカル・フランソワのスピリットとして聴きました。

おそらく「その花びらを瓶に詰め込んで火を放て」がイメージの元になっていると思われます。ベルサイユのばらの花びらがバスチーユで燃え上がるのです。オスカルは地獄の奥底にタッチして走り出す時に貴族の身分を置いてきたのですよ。ひとりの人間として新たな生を得たのです。

 

というように、新曲を好き勝手な聴き方で楽しんでいるところですが、米津作品にはこういうグランドロマンを匂わせるものがありますね。「砂の惑星」はグランドロマン・スペースオペラですし、「爱丽丝」はアジアン・アンダーグラウンド・テイルと銘打てるかなと思います。

安易に陰に陥らず、退廃に堕さず、向光性が強い世界観を持っていて、マイナーな気分にひたることを実は許さない作風だと思います。

 

それで、向光性が強い歌の割にはMVは真っ暗。ああ・・・。

いや、これ、普通にかっこいいですよ。歌ってる姿はキラキラしてます、電気ついてないけど。でも、どうしてもMVは見ていてもやもやするんですよね。もっとかっこよくなるはず、と思ってしまいます。

 

「ごめんね」では、「溢れる光に手が震えたって」と言ってるから、明るいところが怖いのかな。だからまだ暗いところにいるのかな。こんなに世の中に受け入れられているのに?

 

「Flamingo」は期待通りに聴き応えのある歌詞で幸せです。豊富な語彙が不思議に調和していて素敵です。

ちょっとよたって巻き舌巻いて歌ってますけど、歌詞は感傷的ではなく、むしろ叙景に近いですね。「よこはまたそがれ」方式です。「横浜 たそがれ ホテルの小部屋」と景色が名詞で並んでいくだけなのに心に響く、それが叙景。

 

「Flamingo」というタイトルは「パプリカ」と同じで、ちょっと発想が飛んでますよね。2020の応援歌でなんで野菜の名前なんだよ、とか、遊郭風のイメージで歌っておいて突然フラミンゴってわけわかんねーよ、とか、理屈で考えるとちょっと変。「作者の言いたいことは何か」という国語的解釈に立つとなお混乱する。

でもこれは、言葉の跳躍力なのです。

例えば、ニュースの言葉はほとんど飛びません。事実の伝達にイメージの飛躍は危険です。論説文、ドキュメンタリー、エッセイ、小説とだんだん飛躍が許容されていって、詩が一番飛ぶことを許されていると思います。米津さんは、聴いている人を完全に振り切るぎりぎり手前のところまで跳ね上がっているのですね。

また、歌詞は発語することが前提なので、意味付けだけではなく、音を優先する場合もあると思います。これ、「ふらふら」という擬音語が先立っているのではないでしょうか。「ふらふらふらみんご」って「さしもしらじな」とか「ながながしよを」とかの和歌と同じで、口に出したときに音の快感がありますよね。

「TEENAGE RIOT」は歌詞の内容にどんぴしゃな付け方をしているので、言葉のコントロールが巧みだなあと思います。

 

 

 

さて、ここ数ヶ月、聴き込み倒してきた結果、米津玄師さんには「不器用と不具合を抱えたお話好きな男の子」という印象を持ちました。

聞いて聞いて、僕の世界の話を聞いて、と常に呼びかけているけれど、なんかあんまり伝わらないなあ、としょんぼりもしていて、でもやっぱり歌うから聞いて、で締める感じ。

歌詞の中の女の子像も気になっているのですが、それは次回にまた。続く。