エレファントカシマシに聞いてみたいこと その1

エレファントカシマシに聞いてみたいなと思うことを書きとめておきます。

2019年にファンに復帰してからあれこれ考えていたんですよ。

 

①最初のアルバムに恋愛の歌がないのはなぜですか?

たいへん俗な考えなんですが、女の子にキャーキャー言われる歌をうたった方が売れやすいとは思わなかったということなんでしょうか。最初に聴いた時にそこがちょっと不思議でした。私は恋愛の歌がなくても好きですけど、女の子に語りかけて恋の錯覚を起こさせるような歌があった方が取っ付きやすいんじゃないかなと考えておりました。

 

高橋一生さんに提供した「君に会いたい」について

ドラマの主題歌ですが、宮本くんのコメントに非常に興味をそそられました。

「自分では言いにくい例えば『きみに会いたい』というフレーズも、一生さんを通して思いきって言えることがとてもうれしく、自分にとってもわくわくする仕事でした」

言いにくい言葉ってやっぱりあるんだな、ここを深く知りたいなと思ったのと、「きみに会いたい」程度が言いにくいのか!とも思いました。

「きみを抱きたい 全部奪いたい」というフレーズも確かに今までにない直接的な歌詞ですが「浮世とシャットアウトして」と「浮世」という古風な言葉が入るところが宮本ワールドですね。世界がガラッと変わって精神性を帯びるんですよね。こういうところが好き。

 

③アルバムに入っていない楽曲について

「それを愛と呼ぶとしよう」「きみの面影だけ」「sweet memory」「さらば青春」「孤独な太陽」これ全部恋愛の歌ですよね。どれもいい曲なのになんでアルバムに入ってないんだろうと思っていました。

 

①②③をバラバラに考えていたのですが、①+②+③と考えると、恋愛の歌は単に恥ずかしいってこと・・?と思い至りました。50過ぎても「君に会いたい」すら言いにくいのであれば20代の頃はなお言えないですよね。デビューアルバムに恋愛の気配すらなかったのも合点がいきますよ。

だったら「THE ELEPHANT KASHIMASHI LOVE SONGS」に挑戦してほしいな。アルバムに入っていない恋愛の歌をセルフカバーして新しい歌も加えて男女関係なく胸をときめかせたり痛めたりするような恋愛アルバム。きっと素敵。

 

④デビュー曲が『デーデ』なのはなぜなんですか??

ファンに復帰して初めて認識して結構びっくりしました。てっきり「ファイティングマン」だと思い込んでいたので。当時エレカシに関わっていた大人の方々に聞きたいんですよね。本人たちは二十歳ちょっとの小僧共だったのでまだ仕事の経験値も浅かったと思いますが、本人たちの希望だとしたらなぜそれを通したのか。周りが決めたことだとしたら小僧共は異議は唱えなかったのでしょうか。

デーデは曲は明るくポップでアニメのテーマソングにもよさそうではあるけれど、4人とも明るく話すタイプじゃないし、ファイティングマンのかっこよさの方がバンドの雰囲気に合っていたのでは??とどうしても思ってしまうんですよ。

 

⑤「キレる宮本」について

私がエレカシから離れていた間のファンによるライブレポを読んだ率直な感想としては、ヒット曲が出て幸せになったのではなかったの?というものでした。継続していく大変さを考えるとそう単純なハッピーエンドなど無い事はわかるのですが、それでもどうして客が「今日は中止かも」と思うほど荒れたことがあったのか。そうと知っていたらヒョンビンイ・ジュンギくんも放り出してエレカシの元に戻ってきたのにな、っていうか私が戻ったところで何の意味もなかったとは思うけど、ネットの時代になっていたからたくさん誉め言葉を書き綴ったのにな、くらいは思いました。

それはそれとして、宮本くんがステージでなんか物を投げたら3人はおのおのの楽器をせーので宮本に投げ返したったらいいんだよ、とも思ったな。私だったらそうするなというか。宮本くんはリアクションを求めているようにも感じるんですよね。うーん、過去のこととはいえ気になります。

 

⑥4人の中で何番目に死にたいですか。

何を聞いているのだと思われるかもしれないですが、人はみないつか死ぬじゃないですか。最後は嫌だな淋しいなと思うのか、俺が最後まで残るぜと思うのか、なんとなく興味があります。

私は4人全員を見送って死にたいと思ってますよ。重いファンですみませんが、エレファントカシマシがこの世で奏でる最後の音楽を聴いてから死にたいと思っています。先に死んだらその後に出る新曲を聴けないじゃないですか。絶対に成仏できないと思う。希望に反してそうなったら野音に化けて出るので空を見上げてね。

 

⑦コンビニでよく買うものを知りたいです。

またしても何を聞いているのだって感じですが、あのですね、春先になるとコンビニにいちごサンドが並ぶじゃないですか。それを目にすると「あー、これ藤原さんが好きなやつだ」とBUMP OF CHICKENを思い出すんですよ。アイスケースのガリガリくんを見ても「藤原さん、これも好きなんだったよな」って頭の中が藤原基央になるんですよ。BUMP OF CHICKENも良いバンドで大好きなんですけど、私はエレファントカシマシの娘なのでエレカシお父さんたちの好みが知りたいです。

 

今回はとりあえずここまで。書きたい放題書いてちょっとすっきりした。ではまた。続く。

 

 

米津玄師「KICK BACK」

久しぶりに米津さんの歌の感想です。最新の「KICK BACK」から。

 

「いつか見た地獄のいい所」「良い子だけ迎える天国じゃ どうも生きらんない」世間的にいわゆる悪い子が歌ってるのかなと思いました。自分は地獄に行くと思っていて「幸せになりたい 楽して生きていたい 全部めちゃくちゃにしたい 何もかも消し去りたい あなたのその胸の中」と疾走感あふれる曲とともに本音を叫んでいるかのような歌。一番の本音は幸せになりたいんだなと思った。地獄でも生きられますか?天国に行けるような良い子じゃないけど。良い子になる努力は息苦しいんです。僕のような悪い子もハッピーでラッキーでいられますか?

アニメ「チェンソーマン」の主題歌だそうですが私は漫画もアニメも見ていないので、この歌からどんな話が推測してみました。

チェンソーマンて顔がチェンソーなの??両手も?切り刻む相手に顔から突っ込んでいくのかな・・バランス取るのが難しそう。そのアンバランスさえもが青春の動揺ってことなのかしらん。主人公の悪い子ちゃんは何をやっても認められず褒められず、でも幸せになることを諦めていなくてもがいている最中で、誰か雨をよける傘をさしかけてくれよと思っている。実は周囲には理解者も協力者もいるのに(傘をさし出してくれているのに)気付いていなかったり素直になれなかったり。ああ、でも俺にはチェンソーがあるからぶった切ってやるかと萬屋錦之介ばりに切って切って切りまくっているんですね、きっと。

漫画的な好みの展開としては、ライバルの優等生がいるといいな。「良い子には良い子の戦い方があるんだよ、そこで見てろ!!」とか言って窮地に陥ったチェンソー悪い子ちゃんを助けるの。友情が芽生えているけれど素直になれないチェンソーちゃん。「ありがとうぐらい言えるだろ」「うるせえ、次は俺は助ける!!」「うん、よろしくね。僕は君と違って素直なんだ。助けてほしい時は助けてってちゃんと手を伸ばすから」とチェンソーちゃんの神経を逆なでして去っていく良い子くんなのでした。

絶対こんな話じゃないと思うけど、イマジネーションを刺激してくれる曲だということです。

「4443で外れる炭酸水」は何のこと??とわからなかったので検索して、自動販売機のくじのことではという感想を見て納得しました。米津さんのこういうちょっとわかりにくいとこ好きですね(私がわからなかっただけか)

 

 

「POP SONG」と「Ⅿ八七」の感想ですが、こちらはMVを中心に。

「POP SONG」で演技してましたよね。照れがなくなったと思った。役柄が非現実的だから自分を脇に置いておくのがやりやすいのかなと思った。

「Ⅿ八七」では自分自身の出演だったけど、人前に立つ身体を獲得できたなと思った。それ以前は照れもあったし、特に初期のは世界観が漫画かアニメの方がより良いように思ってました。「Ⅿ八七」では、建物の長方形と直線、コンビナートの円という美しい画面構成の中で歌う米津さんもひとつの構成要素、人型として見事に調和していた。

ライブパフォーマンスも変わったんじゃないかなと期待しているのですが、配信はしないのかな。私のような年配者でも米津さんのステージを観たい人、事情があって(遠方だとか介護だとか)コンサートに足を運べない人には配信は有難いのですが。

 

 

最近はエレカシのおじさんたちの話ばかりしてますが、米津さんのことはずっと想っているし新曲は全部聴いています。でもさ、エレカシのおじさんたちの方が老い先短いでしょ?先に語っとかないと。

以下、私以外にはどうでもいい話ですが備忘録として。「lemon」がヒットした2018年の夏、米津さんはツイッターで何かぐずぐずつぶやいていたんですね。自分は仕事で妥協したくないとかなんとか。いかにも若いなあと思いつつ、客が見てるとこで素でぐずぐず言ってんじゃねえぞ米津ゴラァ周りもしっかり教育せんかいと思ってました。

あれだけのヒット曲を出したんだから天狗になってる振りでもして世間を油断させるくらいでいいのに真面目だなあ、でもなんか知らないけど悩んでいるのであれば誉め言葉を書いといてあげようと思いました。私にしてみれば米津さんの歌詞について語らないでいられるなんて信じられないのですが、世の中は歌詞についてさほど語らない。これではミュージシャンも自分の歌の何が良いのかわからないこともあるかもしれないと思いました。ブログの文章もあんまり褒められてないですよね。散文も上手なのに。31才なんてこれからようやく本格的な仕事人生が始まる年頃じゃないですか。まだまだ褒めて伸ばさないと。

本人がエゴサして読んでも読まなくてもよし、米津さんのファンの方でもどなたでも読んでも読まなくてもよし。ここに私の言葉を記しておくことは大海の一滴に過ぎないけれど、この一滴で海の大きさは変わる。そう信じて書いています。

米津さんへのお礼の気持ちも大きいです。私の気力を蘇らせてくれたのは米津さんです。こういう歌詞を書く人を私は長年待っていたのだと目覚めさせてくれました。

目が覚めて気力体力充実したところでね、赤羽駅で今宵のメロディを聴いてしまって宮本のおじさんのことをはたと思い出して現在に至っているのですが、この時、湘南新宿ラインの中でハチ名義の「花束と水葬」を聴いていました。赤羽に着いたら電車がちょっと長めに停車して、いつもはしないのにイヤホンを外してぼーっとしてたら今宵が流れてきて、私の耳には「お前が好きなのは俺だろ」って聞こえてしまったんですよ。2019年2月のことでした。

 

 

結局エレカシの話かよって突っ込みはお母さん受け付けません。ケンちゃん、ツアー頑張ってね。ていうか真面目に配信お願いします。セトリにゴーゴー幽霊船があるじゃないの。これ好きなんだよなー。アイネクライネも聴きたいです。ではまたね。

 

 

エレファントカシマシ2022野音

エレカシ2022野音の感想につながる話です。

2018年の30周年さいたまスーパーアリーナと2019新春をAmazon primeで見ていたのですが、どちらも宮本さんが泣く場面があってちょっと引っかかっていました。ライブに通い慣れているファンの方々のブログを読むとステージではまま泣くことがあるとは書いてありましたが、50男が職場で泣いてるんですよね。会社で例えてみるならば、部長が仕事中に泣き出すってことですよ。普通じゃないですよね。さっきまで何か書類投げて怒っていたかと思えば今度は泣く50男。

「ちょ、待って、泣いてるんだけど」

部下はグループLINEで会話を始めるんですよ。中堅社員数名のグループとかかな。

「ええー、なんなの。なんか泣くようなことあったっけ」

「山田は?いないじゃん、どこ行ったの」

「休憩入るって言ってたけど、あ、戻ってきた」

山田くん、三十路に入ったばかりの彼は自分の机に座る間もなく先輩数名に廊下に引っ張り出されると

「宮本部長また泣いてるからなんとかして!」

「山田行け!」

「えっ、なんかあったんですか?クレーム入ったとか」

「部長がクレームで泣くわけないじゃん。わかんないから行けって言ってるのよ」

「いや、いいっすけど・・えー、あー、じゃあ今日飲みに誘いますわ」

「頼むよー、もう情緒乱高下で困るわー」

「俺ひとりでいいんすか」

「行かないよ、やだよ、号泣とかされたら面倒じゃん」

「わかりました。じゃ、明日報告しますね」

退勤後、山田は宮本部長と夜の街へと消えていきました。翌日、出勤するなりまた先輩方につかまった山田は

「楽しかったっすよ、昨日」

「なんで泣いたかわかった?」

「いや、よくわかんないままっす。でも部長歌ったら気が晴れたみたいで別れ際にこにこだったんで」

「は!!??カラオケ行ったの!?」

「はい」

「待て、なんで誘わん」

「だからー、誘ったじゃないですか。俺ひとりでいいんですかって」

「カラオケ行くなら行くって言ってよー!!」

「何歌ったの、何曲歌ったの!?」

「ナイショです。ふふふ」

「ふふふじゃねえ!!部長の歌声独り占めしやがって!!」

「昨日もサイコーでしたよ」

「そうだろうよ!ちっ、今度泣いたらあたしたちでカラオケ連れてくか!」

「もー、部長のことみんな好きなのになんで僕に振るんですか」

「好きだけどさー、あの突然の感情の爆発はさ、ちょっとねえ」

「僕は宮本部長大好きだから突撃しますよ。怒鳴られることもあるけど、好きな上司ってそうめぐり逢えないと思うんで、躊躇したらもったいないですよ」

うるせえ小僧が説教すんな、と先輩方に可愛がられている山田くんなのでした。

 

 

ええと。創作に変換していったけど、だいたいこういうことですよね。特に2019新春の涙は自覚の薄いSOSに見えた。これを宮本の個性と片付けたり共鳴して一緒に泣いたりするだけではこのSOSを救えないと私は考えるんですよ。

私がエレカシ前線に復帰したのが2019年2月で、長いブランクがあったので自分は新規ファンでもあると思っていて、ライブにずっと通っている方たちの感想を読んで学んできました。中には「今日はもう中止かなと思った」と引くくらい宮本くんがキレた時もあったようですが、推測するに、仕事で煮詰まっているけれど道が拓けないでいる、あるいはそう思い込んでいる、かつ一人で抱えている、その解決法がわからない、上手に相談できない、という仕事をしていたら誰でもが陥る状況になっていたにも関わらず、キレること(キレたように見えること)をアーティスト特有の個性として見過ごされてきたのかな、と思った。

これはソロ活動前の話です。ソロツアーは終始ごきげんで成功裡に終わり、風穴が開いたようでよかったなとほっとしました。結局、ソロ活動という「自分がしたいこと」を周りに「相談」して「協力を依頼」するというまっとうな方法で解決ができたということなんでしょうか。

今回の野音ですが、ほぼ真っ直ぐ立っていたような印象を受けました。ガニ股だったり転がりながら歌ったりせず、あの細い美しいシルエットを堪能できました。歌うことに集中していたのではないかな、たぶん。黙々と歌っているという語義矛盾した形容が合うような気がしました。バンドにも集中してましたよね。楽器トラブルにキレもせず歌いながらチューニングしたり演奏を淡々とやり直すのを見てそう思いました。

セットリストは乾いたロマンティシズム、愛情よりは友情、穏やかなユーモアとほんの少しの人生の哀しみという印象だった。この先のエレファントカシマシに何か期待をしていいような、ほの明るい変化と予感を感じる野音だったと思います。

もう泣かなそう。泣いてもいいんだけど、どっちでも好きです、宮本くん。

死ぬまでにあと1回くらいステージ観られたらいいなと思っているのですが、どうかご縁がありますように。ではまた。

 

 

宮本浩次「rain -愛だけを信じて-」

「rain -愛だけを信じて-」の感想を改めてちょっとだけ書いておこうと思います。

そもそもエレファントカシマシの歌は「男男俺俺行け行け」が主流に聞こえると思います。決して高圧的ではないのは、独白というか自分に対する叱咤激励のニュアンスが強くて、男性性をもって他者を攻撃するものではないからだと思います。このあたりの説明はもうちょっと考察を重ねたいところですが。

時流という点で、この男男俺俺はちょっと不利ではないかなと思っていました。世の中はme too運動とか「有害な男らしさ」の問題とか、今まで黙って我慢していた人々が声を上げ始めていて、男性性や家父長制について考え直さざるをえない潮流は止まらないだろうと思います。この流れの中でエレカシはどういう歌をうたっていくのだろうかと見つめていました。

が、そんな私ごときの賢しい考えなどすべて杞憂でした。「rain」であっさり時流程度の波は超えたと思います。

この歌は女性になりきって歌うともおっしゃっていましたし、カバーアルバムで女性の歌を選んだことも何か宮本さんの嗅覚が働いたのかもしれません。テレビ出演で膝をきちっとくっつけてお行儀よく座っていたのも天然の戦略なのかもしれません。

男女平等の思想的な主張をするわけでもなく、男性として女性に寄り添った歌でもなく、女性になって歌い始めたところ、男男俺俺が愛愛愛愛にがらっと変わったのも正直驚きでした。

「rain」の歌詞が描く世界は私がこよなく愛する少女小説と同じで、女性の人生に潜むユーモアと哀しみ、愛を求める気持ちが切々と歌われています。宮本くんは若草物語を読んだことがあるでしょうか。どうかな。若草物語は四部から成りますが、第二部のクライマックス、ジョーとベア先生のシーンは雨降りです。

「そのうちに雨がひとしずく、ぽつんと頬にあたったので、くじかれた希望をさまよっていたジョーの心は、急にリボンのぬれることを思い出した。しずくはやみそうにもなかった。恋をしている人間であると同時にひとりの女でもあったから、彼女は自分の心を救うにはおそすぎても、せめてボンネットだけでも助けたいと思った。ここで彼女は出がけにあまり急いで雨傘を忘れてきたことを思い出した」

「かかとのあたりはますますぬれ、頭の上にはたくさんの雨傘のかち合う音がした。そのうちに彼女は何もおおうものがないはずの自分のボンネットの上に、少し裂けたような青い傘がいつまでもさしかけられているのに気がついた。顔を上げてみると、ベア氏が見下している」

「幸いなことに、ベア氏は彼女を世界中でいちばん美しい女性だと思い、ジョーにはまた、このときほど彼が『ジュピターのように』見えたことはなかったのだ。帽子の縁はぬれてぐにゃぐにゃになり、そこから流れる小川のようなしずくは両肩をぬらし(ジョーにだけ傘をさしかけたので)、手袋の指はみんな穴だらけだったのだけれども」(「続 若草物語」角川文庫より)

とても幸せな雨のシーンです。貧しくて愛以外に持っているものがない二人。愛だけを信じている二人。ここで「rain」を流したらぴったりですよ。男男俺俺のエレファントカシマシをずっと追いかけてきてジョゼフィン・マーチに辿りつくとは本当に夢にも思っていませんでした。

 

 

縦横無尽ツアーの完結編とエレカシ2022新春コンサートもようやく見ました。

完結編はただただ胸がいっぱいになりました。映像だけでもとても幸せな空間だと感じられました。最後の笑顔を見て、こんな顔をする人だったんだなと感慨深かったです。

でも、あの、正直に告白しますと、「P.S. I love you」の前に「今日だけでも言わせてくれ。ベイビー愛してるぜ」と優しくおっしゃいましたよね。「はっ??」と思いました。飲んでるお茶をがふっと噴くというか。宮本おまえそんなやつじゃなかっただろう??どうした??という思いを禁じ得ない自分がいたことをここにこっそり記しておきます。いやいいんだけど。私も愛してるけど。

エレカシ2022新春ですが、ガコッと恋に落ちました。ええ、なんかもう有無も言わさずガコッと。エレカシに恋に落ちるのは何度目でしょうか。この宮本くんはとても状態がいいというか、大人でプリンスでハンサム。この恋に身をゆだねてもいいですか、宮本さん。とお慕いしたくなるようなエレカシでした。

 

 

9月25日は野音ですね。チケット当たらなくても配信で見ます。4人とも、新春を更に超えてね(鬼のようなことを言うファン)。もっと私に恋させてね。期待してるよ。それじゃまた!

 

 

コーネリアス「Point」

コーネリアス「Point」の感想です。

このアルバムは聴いていて本当に気持ちがいいなと思いました。歌詞にストーリーもいわゆる「言いたいこと」もなく、言葉は完全に音として扱われている。音の形で語りかけてくるというか、何か音の話法?文法?文脈?があって、意味性から解放された言葉が音として踊っているというか躍動しているというか。

歌詞に意味性だけを求めるのはつまらないと私は思うので、小山田さんのように言葉を音として操る人は希少性が高く感じます。ただ、どのミュージシャンも言葉を音として捉えているとは思います。清志郎さんが「タ行の破裂音は歌っていて気持ちがいい」とおっしゃっていましたし。「WATTATA(河を渡った)」の話です(表記が「ワッタタ」なのはなんででしたっけ?)

私が言葉を音として楽しむ原点にセサミストリートがあります。小学生の頃、夏休みに教育テレビ(Eテレ)で見ていたのですが、日本語音声も字幕もありませんでした。子供だったのでよくわからないままなんですが、うちのテレビが古くて字幕機能がなかったのかなと思っています。

英語などまったく知らず、見ながらアルファベットと数字を理解していったくらいでしたが、自分にはわからない言葉を話す人たちを眺めるのがただ楽しかったです。

ポケモンのアニメを見た時にも似たようなことを思いました。ポケモンは独自の言語を話すので人間には理解ができない。人間の言葉を押し付けない設定がいいなと思いました。

ポケモンたちは自分の種族名で話す。人は発語された音を聴くしかないけれど、嬉しいとか怒っているとかの感情はなんとなくくみ取れる。

ペットも同じですよね。私はかつて猫と暮らして、必死で訴えてくる小さな命を理解しようと試みる日々は緊張感もあり、幸せでもありました。私も人間の言葉でいろいろ語り掛けましたが、自然とやさしい意味と話し方になりました。お互い音で会話するのも動物と暮らす醍醐味だなと思いました。

誰かを感じがいいなとか好きだなと思う場合、話す内容だけではなく、声や抑揚もいいなと感じているのではないかと思います。たぶん、自分の好みの音があって、話す声も歌声も意味だけを聞いているわけではないのだろうと考えます。

 

「Point」の中の「Tone Twilight Zone」に虫の音が入っていますが、たしか、西洋では虫の音を東洋人のように情趣とは聞かないと何かの本で読んだことがあります。世界中にいる小山田さんのファンがどう聞いてきたのか、地道に知っていこうと思っています。思いがけずファンになってまだ日が浅いので私の小山田さんを知る旅は始まったばかりですが、人生の楽しみがひとつ増えたと思っています。小山田さん、ありがとうございます。ご活躍を末席にて陰ながら応援していきます。

 

 

では、また。

 

 

歌うことが好きな君と

歌うことが好きな君と出会ったのは

僕らがまだ十にも満たない頃

うちに遊びに来ては椅子に乗って

流行りの歌を歌ってた

日曜日のデパートで一緒に飲んだクリームソーダの泡が

こみあげる君への想いだと自覚したのは

それから数年後

夏休みの昼寝がタオルケットを分け合う以上のものになって

冷たい雨の日に互いの体温を思い出すようになっても

不思議と仲違いをしたことはなかった

喧嘩のひとつもしないなんて

私たちテンション低いよねと言う君の笑顔が

数多のオーディションを乗り越えて

ステージの上で輝くようになっても

手をつなぐ時間はいつでもあった

君の歌が空に届いて

神様がビー玉をはじくように世の中に拡散した

弾け飛んだ音符が僕の元にも降ってきて

手の中でキラキラと小さく鳴り続ける

会えない夜も怖くないよ

君の歌がいつもここにあるから

僕の心も君を奮い立たせていると信じてる

こんなに幸せな僕らはずっとふたりでいよう

君が僕を

僕が君を

ただ愛している

それだけの日々を生きていこう

 

 

 

 

こんにちは。この詩は宮本浩次さんのソロアルバムとソロツアーの感想集大成であり、宮本くんへの誕プレでもあります。

ええと、どう発想したらこうなったかというと

・宮本さんのソロツアー中、インスタ旅日記をひたすら見る

・コンサートに行った方のレポートから宮本語録を読みふける

・インスタが可愛すぎてつい脳内で宮本くんを女子設定にしがち

・語録が愛にあふれていてひたすら幸せな日々

・幼なじみ設定は、去年本屋さんでちらっと見た雑誌の宮本くんのグラビアで、裸足で窓際に座っているのと畳(?)に寝転がっているのを見て「子供たちの夏休みのお昼寝」を想起したため

去年最後のブログで「歌姫とサラリーマンの彼氏の物語」を創作。この設定を頭の中で薄ぼんやりと膨らませていたところ、ツアー完結編6月11日、12日のレポートを読んでる内にインスピレーションがどっと押し寄せてこの詩が転がり出ました。

宮本さんがイメージの源泉ではあるものの、そこから創作に位相をずらしているので、宮本さん本人のことでもないしましてや私のことでもないのですが、宮本くんだけは私の愛を真に受けてくださると幸いです。

詩という形式を選んだのは、物語詩を書いてみたいなと思ったからです。「鎌倉殿の13人」を見ていて平家が滅びた時に、琵琶で語った平家物語叙事詩だという感想をツイッターで読んで、なるほどなあと思っていたのです。まだまだ挑戦&試行錯誤してみます。

クリームソーダの泡がこみあげる、のくだりですが、私が17才の時に書いた詩で気に入ってずっと覚えているフレーズがあって「炭酸はせつない 夏の哀しみがこみあげてくる」。

これは漫画家の鳥図明児(ととあける)さんがグレープフルーツという本に載せていた作品の1コマを見て湧き出てきた言葉です。何十年も前のことなので作品タイトルは忘れましたが、絵は覚えています。女の子がグラスに入った炭酸水を見つめているだけのコマ。台詞もモノローグもありませんでしたが確かな詩情がそこにはありました。

 

縦横無尽ツアー、約8ヶ月、大団円を迎えられておめでとうございます。コロナ禍のこともあり結構緊張して情報を追いかけていましたが、ほっとしました。ツアーに関わった皆様、休養はしっかりお取りになってね。すぐ次のお仕事に向かうとしてもどこかで息継ぎしてくださいませ。

宮本くん、つい女子設定にしてごめんなさい。ひとりの男の人として愛してます。ではまた!

 

 

ナイチンゲール「看護覚え書」

今回はフローレンス・ナイチンゲールについて少しお話します。私は30代前半頃に伝記を読んで以来、ガチ&マジでナイチンゲールリスペクト人間なんです。

フローの考えで好きなところを著作「看護覚え書」から引用しますと

 

「責任者たちは往々にして、『自分がいなくなると皆が困る』ことに、つまり自分以外には仕事の予定や手順や帳簿や会計などがわかるひとも扱えるひともいないことに誇りを覚えたりするらしい。私に言わせれば、仕事の手順や備品や戸棚や帳簿や会計なども誰もが理解し扱いこなせるように──すなわち、自分が病気で休んだときなどにも、すべてを他人に譲り渡して、それですべてが平常どおりに行われ、自分がいなくて困るようなことが絶対にないように──方式を整えまた整理しておくことにこそ、誇りを覚えるべきである」

 

現代にも通じる考えであることに加えて、容赦のない物言いがとても好きです。頭がキレる人の話は読んでいてスカッとします。日本語訳も素晴らしいのだと思います。

もうひとつ、

 

「近頃は召使いの質が落ちてきたとよくいわれるが、私に言わせれば、近頃は女主人の質が落ちてきたのである。(中略)女主人たちは、指示の出し方も知らなければ、召使いたちに指示への従い方──すなわち、知恵を働かせて指示に従うこと、これがすべて修練という言葉の真の意味なのであるが──それを教える方法も知らない」

 

社畜」と自分のことを言う人々に読み砕いて飲み込んでほしい文章です。人の下で働く時期に自分を意志のない畜生と思うか、知恵を働かせて仕事人として力を蓄えるかで将来が変わると思います。指示をする立場の人は、自分を社畜などと言っている若造がいたらしっかり指導しろと言っているようにも聞こえます。

 

なんで今ナイチンゲールについて書くかというと、コロナになってからずっと、フローが今生きていたら英国の、世界の死者数は変わっただろうかと考えていたからです。

例えば換気については、部屋を閉め切るのではなく窓の上部を常に開けろと言います。

 

「窓が適切に設けられており、かつ暖炉に燃料が適切に供給されていさえすれば、ベッドの患者に常に新鮮な空気を確保することは比較的容易である」

「寝室や病室の換気とは、たんに窓を真上まで上げるとか、真下まで下げるとかいうことを意味するものではない。そんなことをすれば、患者を何回も温度の急激な変化という危険にさらすことになる。換気とは、要するに(部屋の)空気を清浄に保つこと、それだけを意味するのである」

 

コロナ対策でも換気は提唱されてきましたが、フローの言っていることと変わらないように思うんですよ。フローが21世紀の知識と技術をもってコロナ対策をしたら・・となぜか亡き偉人に夢を見てしまいます。コロナが3年目に入って疲れているせいでしょうか。

 

「あなたは、自分がした何か良い仕事について『女性にしては、おみごとです』などと言われることを望んでいないであろうし、また自分の仕事について『よくやったけれども、やるべきではなかった。なぜなら、それは女性に適(ふさ)わしい仕事ではないから』などと言われるからといって、良い仕事をすることにためらいを覚えたりすることもないであろう。そうではなく、あなたは『女性に適わしく』あろうとなかろうと、とにかく良い仕事をしたいと願っているのである」

 

括弧内はすべて「看護覚え書」からの引用ですが、ところどころに力強い言葉が刻まれていて、仕事で疲れて弱っている時の滋養になります。フローの偉業に比べると私にできる仕事は砂粒程度のものですが、心意気だけでも近づきたいといつも思っています。

 

最近ブログに連投しているのは連休でちょっと力が余っているからです。好きなことを書き散らかして気も晴れたのでまた明日から仕事に邁進しようと思います。

 

では、また。