「刺さる」感動

胸に刺さる、という表現をここ数年目にする。若い人たちの間で感動したという意味で使われていることは文脈からわかる。が、「あの言葉が胸に刺さった」「この映画は胸に刺さった」という言い回しを目にすると、刺されて負傷しているにもかかわらず愉悦の表情を浮かべて横たわる人々をイメージする。跳ね返す弾力性のない心にさくさくと突き刺さる鋭利な感動。なんかおかしくないか。と思う。

感動は胸に響くものではなかったか。胸いっぱいに広がるものではなかったのか。心が晴れやかに膨らんで、その空間に喜びや希望や祝福が響き渡る様を「感動した」と言い現わしていたのだと思う。

 

私が中高生の頃に流行ったのは「むかつく」という表現だった。これは、自分は不愉快に感じていますという感想を一方的につぶやくだけの言葉だ。傲慢だなあ、と子供ながらに分析し、自分はこの言葉を使うのはよそうと思った。戦おう反抗しようという意志はそこにはなく、生ぬるい自己主張だけはする「むかつく」。

昨今の「刺さる」という言葉からは、若さゆえの不遜な自己主張すらせず、人を感動させるような強い力を一方的に受けるだけの姿が想起される。

 

最近の若者は傷つきやすいのだ、とか、跳ね返す力も失ってしまったのだ、などとは思わない。同じ時代を生きていても、人はひとりひとり違う。流行り言葉で人をくくることには意味はない。かつての私がむかつくとは口にしなかったように、刺さるとは決して言わない若い子さんもいるだろう。

ただ、流行るからには、その時代を象徴するものが自然と浮き上がってくることは否定しない。その象徴が「刺さる」という穏やかではない表現にも関わらず、刺さった刺さったと高揚して使っていることにちょっとギョッとしているのだ。

 

 

「灰色と青(米津玄師+菅田将暉)」 平成の公達が歌うもの

伊勢物語の「筒井筒」をご存知でしょうか。

井戸のそばで遊んでいた幼なじみの男の子と女の子が、大人になってお互い想い合って結婚する、という話の序盤で歌のやりとりをします。

 

筒井筒 井筒にかけしまろがたけ

過ぎにけらしな妹見ざる間に

(一緒に遊んだ井戸の周りでたけくらべをしたね

しばらく会わないうちに僕はもうずいぶんと背も伸びて大人になったよ)

 

くらべこし 振り分け髪も肩過ぎぬ

君ならずして たれかあぐべき

(髪の長さを比べ合った子供の頃から私も大人になって髪も長くなりました

あなた以外の誰のためにこの髪を上げてお嫁に行きたいでしょうか)

 

(現代語訳は私のイメージです・・・文法的に正しくないかも・・・)

 

 

この話を突然思い出したのは、米津玄師「灰色と青」を聴いたからです。

 

「君は今もあの頃みたいにいるのだろうか」

 

「どれだけ背丈が変わろうとも

変わらない何かがありますように」

 

このフレーズを聴いて、ぽんっと筒井筒が飛び出てきました。背丈が変わる。背が伸びるではなく「まろがたけ」の「背『丈』」。たけくらべの丈。この「丈」がフックになって、私の中の古典の引き出しがガラガラっとふたつみっつ開きました。

 

かつて共に過ごしたふたりが今は離れてしまっている。でも、やり直せるならやり直したい気持ちもある。君は今どうしている?僕は背が伸びたよ。伸びる余地があったくらい僕たちは幼かったんだね。

これは筒井筒でもあるけれど、夕霧の歌のようにも思えてくる。

雲居の雁ちゃんと長く離れてしまって、もうだめなのかな、と思っている夕霧。

 

「『何があろうと僕らはきっと上手くいく』と

無邪気に笑えた 日々を憶えている」

 

そして、夕霧さんは明け方の電車に揺られて歌っているのです。

 

「朝日が昇る前の欠けた月を

君もどこかで見ているかな」

 

これは古典的情緒の基本中の基本、「有明の月に君を想う」ですね。つれなくされたり、待ち焦がれたり、千年前の公達が詠った有明の月を、平成の公達も歌う。いにしえの歌人たちが切磋琢磨した日本語の技術と精神を、千年後の青年が間違いなく受け止めて歌い上げる。その美しい瞬間に私たちは立ち会えたのだと言えましょう。

 

 

ところで、歌い出しが「袖丈」ですが、「丈」は何かお気に入りワードなんですかね、たまたまですかね。どっちでもいいですけど、米津玄師さんが古典がお好きだと嬉しいです。ツイッター見ると室生犀星を読んでらっしゃいますね。室生犀星、いいですよね。私も好き。

久々にイメージが膨らむ歌詞に出会えてときめきました。ありがとうございます。しばらくBOOTLEGはヘビロテになりそうです。

 

「おっさんずラブ」感想 続編に思うことなど

続編はなくてもいいと思う。今作るとなると、肩書と権力はあるがセンスがない大人が口を出して方向性を曲げてしまいそうな気がする。せっかくの傑作にケチをつけることもなかろう。

ひとつだけ、「天空不動産を舞台にしたシリーズ」はアリかなと思う。別の営業所でのまったく新しい話であれば見てみたい。恋愛物でもなんでもいいけど、今度は女性が主役の話が見たい。黒澤部長の同期でライバルの女性部長とか、本社で牧くんに憧れていた後輩の女の子とか出てくると楽しいかも。天空不動産である限り、この世界に春田たちが生きていることを感じられるからそれでいい。

 

しかし、田中圭さん、グラビアで「ムダに良い体」を披露されているんですね。私は心の底から誰であれ脱がなくていいと思っているので、そこそこにして止めていただけると有難いです。

私事で恐縮ですが、男性が半裸になっている写真が載っているとわかっている場合、私はそういう雑誌は買いません。なぜかというと、仮に今、私が事故か何かで警察沙汰に巻き込まれたとしましょう。警察の方がうちに来て私の所有物を見てまわった挙句、男優さんのグラビアが載っている雑誌があったりすると「やっぱ独身女性ってこういうの好きなんだな」とか思われたら絶対イヤ!!!だからです。

普通にインタビュー記事だけ読ませてくださいよ。服を着てても十分魅力的でしょ。ほんっと頼みます。遣都くんも脱がないでね!!!

 

おっさんずラブ」はそういう乙女ラインというか、少女漫画ラインを守ってくださったのもよかった。

わかりやすいイメージで言うと、ラブシーンが「子犬のキス」「じゃれあい」でとどまっていること。最終回のラストでふたりの下半身をテーブルで巧みに隠し、矩を超えない表現で終わったのも手放しで絶賛できる要因になったと思う。

 

最後に、私が一番衝撃を受けたエピソードについて語っていいですか。「お粥を作ろうと思ったらお餅になった」件です。

いまだにこのシーンはとてもシュールに思えるのですが、もち米が春田家にあったのは、お母さんが買っておいたの?それとも牧くんがおこわとか炊いてたの?お粥を作ろうとして失敗するエピソードなら焦がす程度でも十分だと思うのだけど、なぜここでお餅になるの???一体どこからこのエピソードが生まれたの?遣都、アドリブで食べてるし!お餅!!

と、ここに一番ココロを揺らしましたかね。ことほど左様に明るくて振り切ってて泣けて笑って、良いドラマでございました。

 

「おっさんずラブ」感想 韓ドラファンの視点から

私はここ10年くらい、日本のドラマよりも韓国ドラマの方をよく見ている。

その中で培われた視点で「おっさんずラブ」を見ると、アジア近隣でもヒットするのはよくわかる。

 

まず、春田はおばあさんを2回助ける。蝶子さんを案内する途中と牧との待ち合わせに向かう途中。春田のプロフィール「お人よし」を象徴しているのだと思われる。後者は春田と牧のすれ違いを起こしてラストを盛り上げるためだろうか。

韓国ドラマでもご老人を助ける場面はよく出てくるが、日本に比べてその意味合いは重い。韓国では年功序列が日本よりも厳しいので、目上の方に礼儀正しく接することはその人物の社会的評価に深くかかわる。

つまり、春田の行動は「礼儀正しく道理をわきまえた青年」と映る。ここだけでもこの作品の支持年齢が上がる。

 

次に、春田も牧も、よく泣いた。日本のドラマでこんなに自然に男性が泣くのは珍しいと思う。日本人男性は「人前で泣くことは男らしくない」と言われて育つことが多いのではないか。そもそも日本人には感情をあらわにすることはお行儀がよくないという感覚が強い。

最後の最後で部長に本当にお別れする時、春田は、田中圭さんは、心の底から震えて泣いているように見えた。男性がこんなに泣く姿は見たことがないな、と思った。

韓国ドラマでは男優さんたちは当たり前のように泣く。嬉しくても悲しくても、人前でもひとりでも、涙を隠そうとはしない。感情の発露が美しいのが韓国ドラマなのだ。それは見ている者の心を揺らす。喜怒哀楽は言葉の壁も国境も越える。

おっさんずラブ」は性別や年齢差や立場を越えて人が出会って惹かれていくドラマだと思う。その喜びも苦しみも泣きに泣いて正直に見せてくれた春田と牧の心模様が、広く海外に伝播していくのはよくわかる。

 

もうひとつ、黒澤部長の恋心は非常に韓国ドラマのそれに近い。しかし、これは手放しで肯定できない。曰く「初恋、もしくは純愛」「長い年月想っている」「愛を形で求める」「求愛行動がストーカーすれすれ」などなどである。

部長のフラッシュモブによる求婚など典型例で、ああいった目に見える形で愛情を伝えることを良しとする場面は韓国ドラマに多い。

私は私の嗜好上、ここだけは賛同しかねる。

部長が春田の家に押しかけて住み始めたのも、弱みにつけこむ悪魔の手法だ。牧にフラれたと思っている傷心の春田の隙をついたのだ。

でも、まあ、だからこの部長が仕事ができる人なのだとも納得する。わずかな機会も逃さず自分に都合の良い方向に物事を持っていく実力は認めよう。

 

かように韓国ドラマとの類似を感じながら、それでも日本らしさは隠せないものだなと思って見ていた。

春田家や黒澤家の内装、天空不動産の面々が案内する家々は日本の住宅事情が垣間見えて面白いなと思った。通勤風景、浜辺に湾岸、緑の多い公園もそれぞれに美しい。ちずのファッション、春田と牧の普段着も今の日本人の嗜好がわかる。

そして何より牧ごはん。牧の実家も含めて、普通の日本のごはんが淡々と映し出されていくのは外国の人から見ると興味をそそられると思う。

 

 

感情の起伏がはっきりしている韓国ドラマを見た後に日本のドラマを見ると、「あれ、そこで地団駄踏んで泣かないの?」「お母さん、ここは息子の肩をバシバシ叩いて怒らないとダメだよー!」と、“クール”ジャパンを実感する。ホットジャパンとは言われない所以がわかる。一言少なくて、感情に抑制が効いていて、なんだか静かなのだ。

それで、「おっさんずラブ」を見終わってしばらくして、はたと気付く。会社の屋上で春田を取り合ったり、ファミレスで叫んだり、仕事中にカミングアウトしたり、騒ぎたい放題だったよね。それで、みんな言いたいこと言ったよね、最終的には。牧くんがいろいろ我慢してたけど、もう我慢しないことにしたらしいし。日本人には珍しく感情をスパークさせたドラマだったと思う。

 

牧くんのお母さん役が「チャングム」の声の生田智子さんだったのも嬉しかった。牧くん、チャングムに育てられたのかー、そりゃいい子になるはずだ。

 このドラマは韓国でリメイクされるのではないですかね。春田の性格は、ハルモニ(おばあさん)たちに受けると思いますよ。

 

「おっさんずラブ」感想 ガールズ編

ちずは可愛いだけではなかった。性格描写でさりげなくいろんなことを伝えていて、「お得意先にセクハラされたので怒ったら、相手に謝れと社内で言われたので納得いかなくて辞めた」「(春田に恋人の振りをしてくれと言われて)人前でいちゃつくような女は嫌いだ」という趣旨の返事をする。

内田理央さんの見た目の可愛らしさについ目を奪われてしまうが、ちずは強いし正しい。春田に告白した後、コンニャクの袋を下げたまま「じゃあね!」と去る時も手の振り方が肘から上がっていて豪快だ。女の子は手首から上だけをひらひらさせることが多いように思うので、ここでもちずのたくましさを感じる。

内田理央さんは、テレビ版「海月姫」でまややを演じたんですね。三国志はお好きだったのでしょうか。まややの役は三国志の知識を長々としゃべらないといけないので、もしそれまで興味がなかったら結構大変だったかも。

こんなきれいな女優さんも、きれいなヒロインをやっていればいいわけではないんだな、と思う。

 

蝶子さんが、部長がフラれたところを見てもらい泣きしたことでこのドラマは思う方向へ展開できたと思う。

30年連れ添った夫が、年若い男性部下を10年想っていて、自分とは離婚したいとか言ってきたら、部長がふられた時にざまあみろってなるのが普通だと思いませんか。私は思いますよ。

部長と一緒に泣いて、もう一度アタックしてみたら?と作戦まで立ててくれる。不貞を働いたのは部長の方なのに、蝶子さんの方が家から出ていく。これらの行動の根拠は、蝶子さんが仕事をしていて経済的に自立しているからではないか。夫に離婚されたら食っていけないという不安はみじんも感じられない。夫の身に起きたことを冷静に判断できる余裕があるのだと思う。

 

ちずも蝶子さんもマイマイもアッキーも、自分で稼いでいる。人に頼って生きていこうなどと考えている気配がない。春田の後輩の恋人も実業団の陸上選手、朝ドラ女優の檸檬ちゃんも働く女性。このドラマのヒットの要因は数あれど、女性の描き方もそのひとつだと思う。

 

それにしても、内田理央ちゃんはこの脚本を読んだ時に「えっ、林遣都が恋のライバル?それで、あたしが負けるの??」とか思ったりしなかったのだろうか。大塚寧々さんは「はあ?ヒロイン吉田鋼太郎??ちょ、待って、女優のあたしがヒロインじゃないの??」と衝撃を受けたりしなかったのだろうか。

きれいな女優さんがきれいなヒロインをやるだけでは済まなくなり、女優のライバルが女優とは限らない時代になったということですかね。

世の女優さん方は、その胸の奥にある女優魂に火をつけてはくれまいか。

おっさん役者がヒロイン役を奪ってますよ。姐さん方のシマを荒らしてますよ。このままでいいんですか。

「チワワに負けてたまるか」と奮起していただいて、女優の面目躍如と言われる姿をいつかどこかで見せていただけると私は嬉しいです。

 

 

田中圭さんと林遣都さんはですね、今後も女優さんとのラブシーンの方が多いかと思うのですが

「なんか、遣都みたいにグイグイこないなー」

「やっぱり圭くんの時みたいに本気で洋服投げとかできないなー」

「「いや、いいんだけど」」

と、ちょっぴり残念がっていただけると嬉しく思います。

 

「おっさんずラブ」最終回を迎えて(ネタバレます)

大満足の最終回でした。このドラマを世に送り出してくれたすべての方に感謝したいです。

第1回から見直してみると、2回目くらいまでは、単に気のいい不動産屋さんのお兄ちゃんの話と言えなくもない。「人と街が好きじゃないと営業はできない」など春田がちゃんと仕事をしている姿も垣間見える。それが、回が進むにつれて怒涛のラブストーリーに転がっていって、最終回のふたりの海辺での紅白ハグ(いや、お衣装が赤と白なので)ではあまりの幸福感に泣けてしかたがなかった。

 

私は春田を見ていて「この人、誰?」と思った。もちろん田中圭という役者は知っている。でも、春田を演じているこの人は、誰なの?田中圭ってこんな人だった・・・?と問いかけずにはいられない。

スターの挨拶の常套句として「次の作品では新しい姿をお見せできるように頑張ります」というのがある。田中圭は、本当に新しい姿を見せてくれたのだと思う。私のように「知ってはいるけれど」程度の視聴者をくぎ付けにしたのだから。これからももっと見たいと思わせてくれたのだから。

 

林遣都は・・・遣都くんは・・・ちょっとマジで怖い。嫉妬の表現としてテーブルの下で春田の足をつねったり、春田の作ったものなら牧は食べるだろうと餅粥を食べたり、自分の過去の恋愛が「気になる?」との小悪魔発言が、すべてアドリブって!!!

林遣都の魔性を見たというか、単に今まではこの魔性を引き出す役柄ではなかったのだろう。「銀二貫」で魔性はいらないよね。こんなに恋に身を捧げる役柄はまったくイメージしていなかったので牧のキャラクターはやはり「新しい姿」だった。暗く重く熱い気持ちが底にあって、普段は表に出さないけど、いざという時にゆらゆらと立ち上ってくる。それが「春田さんなんか好きじゃない」だったりするので、単純な春田にはとてもわかりにくい。

 

吉田鋼太郎さんは「おまえが俺をシンデレラにしたんだ」の風圧がすごかった。役者さんは、脚本を手にした時にどういう気持ちになるのだろう。大ベテランになった今、こんな乙女台詞を言う日が来ることを予見できていただろうか。年若い制作陣からの挑戦状のようにも受け取れたのではないか。

私自身が黒澤夫婦の世代に入るからか、若い人との関わり方も興味深く見ていた。マロのような男の子は希少だ。蝶子さんをひとりにしないためのやさしいフィクションだと思う。

最後に部長が春田の手を放したのも、若くはない故に決断できたことだと思う。自分の気持ちに正直でいたいが、若い人たちの未来は自由で明るいものであってほしいのも本音なのだ。春田が自分に流されているだけだということは、部長は最初からわかっていて、でもこの恋に夢を見ていたかった。はるたんが戻るべきところに戻る日が来たら、せめてみっともない真似はしないでおこう。

部長のとった行動はパワハラ満載だが、恋の幕引きはご立派だったと思う。蝶子さんの健やかな様子を見ていると、本当のパワハラ人間ではないということも伺える。

 

最終回の春田の「牧が好きだ」から「ただいま」「おかえり」に至るまでが白眉だと思う。BGMが一切なく、ただ、春田と牧がそこにいる。ふたりが生きて愛し合っているだけ。それがこんなにも心を揺さぶるものだとは思ってもみなかった。

田中圭さんも林遣都さんも、よく泣いた。春田と牧を生きることは心身の底から共鳴し合う出来事だったのではないか。おふたりとも、ふたりを生きてくれてありがとうと心からの感謝を伝えたい。

 

「おっさんずラブ」最終回前にちょっと感想

一体、自分は何を見ているのだろうか。なぜこんなにも魂を奪われているのか。
まさか、土曜の深夜に気楽に見始めたドラマにここまで入れ込む日がくるとは思っていなかった。毎日ツイッターを検索しているが、#おっさんずラブのタグでつぶやきが止まることがない。いつ見ても大量の思いがどんどん流れていっている。はあ。
何が自分をここまで揺さぶったのか、いろいろ考えに考えてみた。言葉にしないと気持ちが収まらない。


役者の魅力、脚本の繊細さ、受け狙いのない演出など語りたいことは多々あるが、そこから生まれた春田という人物の許容量の大きさに、視聴者は心を存分に預けているのではないかと仮説を立てました。
黒澤部長の行動を、自分が春田になったつもりで考えてみましょう。私なら絶対拒否。即答で拒否。いやいやいや、10年て。妻のいる上司から10年好きでしたとか、妻とは別れるからとか一方的に言われて、こちらの気持ちは無視で話を進める人を受け入れることはできない。身の危険すら感じる。盗撮は犯罪です。パソコンに私のフォルダー作るな。弁当とかなんか入ってそうでコワいわ。


春田は、驚きながらも上記のような完全拒否はしない。部長の奥様に名前を聞かれて「『はるたん』こと春田創一です」と答える。部長が名付けたあだな「はるたん」を受け入れ自ら名乗りさえする。困りながら泣きながらだったとはいえ。
幼馴染のちずの自覚もなかった春田への恋心に対しても、茶化すことなく受け止める。
そして牧のことは言わずもがな、同性は恋愛対象ではなかったはずだが、つきあってくださいと言われて、はいと答える。しまいには別れたくないと泣く。
こんな修羅場を立て続けにくぐり抜けながら、毎日ちゃんと会社に行って働く。飯を食う。この、何をされても、何が起こっても春田はいつも春田であるところに、このドラマを見ている人々は安心して心をまかせているのだと思う。


そのように安心して何の引っかかりもなく視聴できるドラマというのが稀有なのではないだろうか。なぜ引っかかりがないかというと、恋心にまっすぐ向き合っているからだと思う。部長は「こんなおっさんの上司に好きだって言われても困るよな、冗談冗談、気にしないで」などと逃げは打たない。ちずも「好き!」と飾りなく伝えた。この恋に嘘はつかない。告白した相手とこれからも顔を合わせ続けることはわかっているのに、恥ずかしさもみじめさもないわけがないのに、この気持ちをごまかしたりしない。このストレートに投げられた球を視聴者も胸の真ん中で受け止めたのだと思う。


さて、最終回はどうなるのでしょうか。ただひたすらに楽しみに待っています。