「刺さる」感動

胸に刺さる、という表現をここ数年目にする。若い人たちの間で感動したという意味で使われていることは文脈からわかる。が、「あの言葉が胸に刺さった」「この映画は胸に刺さった」という言い回しを目にすると、刺されて負傷しているにもかかわらず愉悦の表情を浮かべて横たわる人々をイメージする。跳ね返す弾力性のない心にさくさくと突き刺さる鋭利な感動。なんかおかしくないか。と思う。

感動は胸に響くものではなかったか。胸いっぱいに広がるものではなかったのか。心が晴れやかに膨らんで、その空間に喜びや希望や祝福が響き渡る様を「感動した」と言い現わしていたのだと思う。

 

私が中高生の頃に流行ったのは「むかつく」という表現だった。これは、自分は不愉快に感じていますという感想を一方的につぶやくだけの言葉だ。傲慢だなあ、と子供ながらに分析し、自分はこの言葉を使うのはよそうと思った。戦おう反抗しようという意志はそこにはなく、生ぬるい自己主張だけはする「むかつく」。

昨今の「刺さる」という言葉からは、若さゆえの不遜な自己主張すらせず、人を感動させるような強い力を一方的に受けるだけの姿が想起される。

 

最近の若者は傷つきやすいのだ、とか、跳ね返す力も失ってしまったのだ、などとは思わない。同じ時代を生きていても、人はひとりひとり違う。流行り言葉で人をくくることには意味はない。かつての私がむかつくとは口にしなかったように、刺さるとは決して言わない若い子さんもいるだろう。

ただ、流行るからには、その時代を象徴するものが自然と浮き上がってくることは否定しない。その象徴が「刺さる」という穏やかではない表現にも関わらず、刺さった刺さったと高揚して使っていることにちょっとギョッとしているのだ。