東京医科大の入試

東京医科大の入試をめぐる事件は、人の努力を愚弄するにも程がある。

医者になりたいと思った子供が努力して努力して努力して、それでもすんなりと合格できるわけではない、それが医学部入試だ。子供の純粋な努力に対して公正な結果を出すのは大人の当然の義務だろう。

 

女性が子供を産むために一時仕事を離れるのも医者だけではあるまい。産休の間の仕事をどう回すかを考えるのはすべての職業に共通したことだ。医者の世界が多忙を極めて正常な判断ができないのであれば、まずは自分たちの仕事を見直すべきであって、受験生にしわ寄せがいくなど恥を知るべきだ。

 

18、9の人間などまだ子供だ。世の中には不条理も理不尽もあることには気付いているが、それでもどこか大人を信用している、信頼すべき社会がそこにあるという希望を完全には失っていない存在なのだ。大人ならば子供の期待を裏切ってはならないと私は思う。

 

不合格だった受験生は、受験料の返還や成績の公示など、後悔が残らないように納得のいくまで追求してほしい。そして、まだ医学部受験をしようと思っているのであれば、自分の努力を信じ続けてゴールまで完走してほしい。

医学部ではない道をすでに進んでいるのであれば、その道は正しいんだよと言ってあげたい。諦めてくじけたかもしれないけれど、今までの努力は別の形で報われる。報われる日は今日や明日ではないかもしれない。10年後20年後かもしれない。でも、努力の仕方を学んで、それによって得た知識や考察力は、あなたのまなざしを明るく聡明にしていると思う。それは誰にも奪われない力であり、必ず開花する時がくる。複雑な人生の道の足元に美しい花を咲かせる力はすでにその手にあるのだと伝えたい。

 

「エモい」

「エモい」という言葉を聞いて思い出したのが

八木重吉「素朴な琴」

 

この明るさのなかへ

ひとつの素朴な琴をおけば

秋の美くしさに耐えかね

琴はしずかに鳴りいだすだろう

 

 

「耐えかね」がエモのキモかなあ、と思うのですが

どうなんだろ??

いまひとつ使いどころが想定できずにいます

どうしても発語するとしたら

「エモーショナルですね」ってフルスペル唱えてしまうかも

 

君死にたまふことなかれ ヌナの願い

2017年12月、SHINeeのジョンヒョンが自死する前、お姉さんにそれが察せられるメッセージを送ったそうだ。お姉さんはすぐ警察に通報する。でも、間に合わなかった。

2018年1月、女優ハ・ジウォンの弟で俳優のチョン・テスも自ら亡くなった。

ふたりとも鬱病だったと報じられている。

 

今月16日、チャン・グンソク躁鬱病を公表して入隊した。またこの病気なのか、と重い気持ちで記事を読んだ。3人とも世界中にファンがいて、多くの関心と愛情を寄せられている。それでも何故こうなってしまうのか、それとも病は愛情の授受とはなんの関係もないからなのか。一介のファンですら悲しむものを、お身内の方やともに仕事をしてきた方たちの胸中はいかばかりかと思う。

 

韓国芸能界では、ちょっと前まで歌手や役者の住所が公表されていて、ファンが家に行ったりしていたらしい。芸能人の扱いがいかに無防備で雑だったかがわかる。待遇改善を理由に事務所ともめるケースも目につく。売れる前の若い女性が「接待」をさせられることも噂ばかりではないらしい。

私は素人なので何も断言はできないが、そこから「世界の韓流」に昇りつめるためには、実務的にも意識改革という意味でも、並大抵の努力では済まなかっただろうと思う。

 

チャン・グンソクくんは、最初に日本でコンサートを開いたとき、ホールの半分しか席が埋まってなかったそうだ。それで、毎年必ず日本でコンサートをして、いつかきっと満員にしてみせると思ったらしい。それはやがて叶うことになるのだが、この男気、生真面目さ、しかも見せる姿は日本人の好感度に合わせた「かわいいグンちゃん」だったのだから、どれだけのエネルギーを使ったことだろうかと今更ながら思う。

 

なぜ病気になったのかなど、誰にもわかりはしない。病気になってしまったら、どうつき合っていくかを考えるしかない。

チャン・グンソクくんは一人っ子でお姉さんはいない。でも、世界中のヌナ(お姉さん)が見守っていることが伝わるといい。心からの愛情が届くといい。

 

「BOOTLEG」感想

米津作品で最初に聞いたのは「lemon」です。「わたしのことなどどうか忘れてください」のくだりで浮かんだのは、日吉ミミ金井克子藤圭子夏木マリという名でした。私が子供の頃にテレビで見ていた情念を歌う大人の女性たち。不幸な匂いのする女性の一人称ソングが得意な人なのかな?との感想を保留にしつつ、他のも聞いてみたいと思っていたら、大好きな菅田将暉くんと歌ってらしたので購入。

その「灰色と青」は古典的深読みができたので、面白いと思ってアルバム「BOOTLEG」を聴き込みました。

 

第一印象では「かいじゅうのマーチ」が好みです。小学校唱歌が組み込まれているというだけでもう好き。

でも、一番引っかかったのは「愛と歌うよ」の助詞の「と」。

普通は「愛『を』歌う」になると思うし、それであっても楽曲の価値が損なわれることはない。けれど、ここが「と」になることで言葉が粒立つ。バニラアイスだと思って食べてたらクッキーアンドクランチで、舌に予期せぬ小さな塊が当たる、あの感触。食べ物も言葉も五感に響くのは変わらない。 

それから「涙を隠しては」の「は」。ここ、散文的には解釈しにくい。

 

さあ出かけよう 砂漠を抜けて

悲しいこともあるだろうけど

虹の根元を探しにいこう

あなたと迎えたい明日のために

涙を隠しては

 

あなたと明日を迎えたいから涙を隠しては出かけるし探しに行くんですよね?てことは、しょっちゅう泣いてるの?泣きたいほど「あなた」と一緒にいるのが幸せで嬉しかったり悲しかったり怖かったりするけど、涙を隠しては顔を上げて愛と歌うのね、きっと。たぶん。いい子ね、かいじゅうくん。

というように、聞く側の探求心をかきたてるのが、この「は」なんですよ。そして、かなりの手練れじゃないとこういう詩は書けない。米津玄師、何者だ。と思ってブログを読んだら、「畢竟」ってサラリと書かれてあって、ああ、これは普通の語彙の持ち主ではないなと納得しました。最近、目にしないですよね、「畢竟」。

 

ひとりの人の語彙には、話し言葉と書き言葉があると私は思っています。話は面白いけどメールだと没個性の人、話はヘタだけどLINEでのやりとりは魅力的な人、前者は耳から入る口語に強く、後者は目で見る文語に強いのだと思います。

畢竟は書き言葉。読書からしか得られない語彙です。言葉はその人を明らかにする。相当な読書家なんだろうなと更に興味がわいたのです。

 

iTunesで各アルバムの曲のタイトルだけを見ていくと、澁澤龍彦、東京グランギニョル少女革命ウテナなどのイメージが浮かびました。古風で浪漫的でほんの少し退廃的でもある言葉の渦。試聴してその音の意外な明るさとポップさが言葉の重さを相殺するのを感じながら、ああ、ここから「lemon」に行き着いたのか、と腑に落ちました。

たぶん、「OFFICIAL ORANGE」「diorama」の頃は、中二病の歌詞と言われていたのではないかしら。そこには支持も称賛も込められてはいたと思うし、そう言われかねないような漢字使いだけど、違いますよ。

これは文学的内省というのです。

本好きや言葉にこだわりがある人間は誰しも通る道です。やや大仰とも言える表現を使ったり、日光よりは月光を好むような感性をよしとしたり、表現をする喜びに気付いたことに優越感を持ったり、大人になってふり返ると赤面してしまうような自意識過剰さをスタート地点として、そこからどれだけ自分を脱ぎ捨てていけるか、この内省なしには洗練された言葉にはたどりつけないのだと思います。

 

「lemon」の歌詞には不必要な言葉の突起はない。使っている単語が平易でわかりやすく、カラオケで歌っても何も異物感はない。

削ぎ落して精錬したあげくのシンプルな筆致の中に「切り分けた果実の片方の様に」という比翼の鳥・連理の枝を想起させるフレーズが際立って美しい。

暗くノイズの多い内省という名の洞窟を彷徨って、持ち物もすべて落として失くして身ひとつで這い出ていった先に開けた地平でうたう歌。そこにこそ個性という光が静かに宿るのでしょう。

 

 「YANKEE」も「Bremen」も聴き込み中ですが、全体的に、歌詞が混濁していても音は明るくて精巧で楽しいですよね?「アイネクライネ」とか「産まれてきたその瞬間にあたし 『消えてしまいたい』って泣き喚いたんだ」って、そんなわけねーだろって突っ込みどころの多い歌詞なんだけど、この太宰並みに鬱陶しい内容を聞き流せるくらいメロディは可愛い。何度でも言う。明るくて楽しくて可愛い。このバランスがとても気持ちいい。

 

しかし、米津玄師さんが人気があるのは、声もいいからですよね。ネットスラングで言う「雄み」があるってやつですね。男性的な性的な魅力がにじみ出ている様、という意味で若いお嬢さんたちが嬉々として使ってるこの言葉、最初、なんのことかわからなかったんですが、「ねむみ」「やばみ」の仲間だとわかってわかりみが深まりました。

 

私は詩を読むのが好きなので、こういういろんな読み方ができる歌詞にめぐり会うと本当にわくわくします。世の中には私が知らない良い歌がたくさんあるのだと思います。が、この世のすべての曲を聞くことはできないので、こういう風に出会えることが大切なんですよね。良い出会いが果たせて満足です。新作も楽しみに待ってます。

 

「刺さる」感動

胸に刺さる、という表現をここ数年目にする。若い人たちの間で感動したという意味で使われていることは文脈からわかる。が、「あの言葉が胸に刺さった」「この映画は胸に刺さった」という言い回しを目にすると、刺されて負傷しているにもかかわらず愉悦の表情を浮かべて横たわる人々をイメージする。跳ね返す弾力性のない心にさくさくと突き刺さる鋭利な感動。なんかおかしくないか。と思う。

感動は胸に響くものではなかったか。胸いっぱいに広がるものではなかったのか。心が晴れやかに膨らんで、その空間に喜びや希望や祝福が響き渡る様を「感動した」と言い現わしていたのだと思う。

 

私が中高生の頃に流行ったのは「むかつく」という表現だった。これは、自分は不愉快に感じていますという感想を一方的につぶやくだけの言葉だ。傲慢だなあ、と子供ながらに分析し、自分はこの言葉を使うのはよそうと思った。戦おう反抗しようという意志はそこにはなく、生ぬるい自己主張だけはする「むかつく」。

昨今の「刺さる」という言葉からは、若さゆえの不遜な自己主張すらせず、人を感動させるような強い力を一方的に受けるだけの姿が想起される。

 

最近の若者は傷つきやすいのだ、とか、跳ね返す力も失ってしまったのだ、などとは思わない。同じ時代を生きていても、人はひとりひとり違う。流行り言葉で人をくくることには意味はない。かつての私がむかつくとは口にしなかったように、刺さるとは決して言わない若い子さんもいるだろう。

ただ、流行るからには、その時代を象徴するものが自然と浮き上がってくることは否定しない。その象徴が「刺さる」という穏やかではない表現にも関わらず、刺さった刺さったと高揚して使っていることにちょっとギョッとしているのだ。

 

 

「灰色と青(米津玄師+菅田将暉)」 平成の公達が歌うもの

伊勢物語の「筒井筒」をご存知でしょうか。

井戸のそばで遊んでいた幼なじみの男の子と女の子が、大人になってお互い想い合って結婚する、という話の序盤で歌のやりとりをします。

 

筒井筒 井筒にかけしまろがたけ

過ぎにけらしな妹見ざる間に

(一緒に遊んだ井戸の周りでたけくらべをしたね

しばらく会わないうちに僕はもうずいぶんと背も伸びて大人になったよ)

 

くらべこし 振り分け髪も肩過ぎぬ

君ならずして たれかあぐべき

(髪の長さを比べ合った子供の頃から私も大人になって髪も長くなりました

あなた以外の誰のためにこの髪を上げてお嫁に行きたいでしょうか)

 

(現代語訳は私のイメージです・・・文法的に正しくないかも・・・)

 

 

この話を突然思い出したのは、米津玄師「灰色と青」を聴いたからです。

 

「君は今もあの頃みたいにいるのだろうか」

 

「どれだけ背丈が変わろうとも

変わらない何かがありますように」

 

このフレーズを聴いて、ぽんっと筒井筒が飛び出てきました。背丈が変わる。背が伸びるではなく「まろがたけ」の「背『丈』」。たけくらべの丈。この「丈」がフックになって、私の中の古典の引き出しがガラガラっとふたつみっつ開きました。

 

かつて共に過ごしたふたりが今は離れてしまっている。でも、やり直せるならやり直したい気持ちもある。君は今どうしている?僕は背が伸びたよ。伸びる余地があったくらい僕たちは幼かったんだね。

これは筒井筒でもあるけれど、夕霧の歌のようにも思えてくる。

雲居の雁ちゃんと長く離れてしまって、もうだめなのかな、と思っている夕霧。

 

「『何があろうと僕らはきっと上手くいく』と

無邪気に笑えた 日々を憶えている」

 

そして、夕霧さんは明け方の電車に揺られて歌っているのです。

 

「朝日が昇る前の欠けた月を

君もどこかで見ているかな」

 

これは古典的情緒の基本中の基本、「有明の月に君を想う」ですね。つれなくされたり、待ち焦がれたり、千年前の公達が詠った有明の月を、平成の公達も歌う。いにしえの歌人たちが切磋琢磨した日本語の技術と精神を、千年後の青年が間違いなく受け止めて歌い上げる。その美しい瞬間に私たちは立ち会えたのだと言えましょう。

 

 

ところで、歌い出しが「袖丈」ですが、「丈」は何かお気に入りワードなんですかね、たまたまですかね。どっちでもいいですけど、米津玄師さんが古典がお好きだと嬉しいです。ツイッター見ると室生犀星を読んでらっしゃいますね。室生犀星、いいですよね。私も好き。

久々にイメージが膨らむ歌詞に出会えてときめきました。ありがとうございます。しばらくBOOTLEGはヘビロテになりそうです。

 

「おっさんずラブ」感想 続編に思うことなど

続編はなくてもいいと思う。今作るとなると、肩書と権力はあるがセンスがない大人が口を出して方向性を曲げてしまいそうな気がする。せっかくの傑作にケチをつけることもなかろう。

ひとつだけ、「天空不動産を舞台にしたシリーズ」はアリかなと思う。別の営業所でのまったく新しい話であれば見てみたい。恋愛物でもなんでもいいけど、今度は女性が主役の話が見たい。黒澤部長の同期でライバルの女性部長とか、本社で牧くんに憧れていた後輩の女の子とか出てくると楽しいかも。天空不動産である限り、この世界に春田たちが生きていることを感じられるからそれでいい。

 

しかし、田中圭さん、グラビアで「ムダに良い体」を披露されているんですね。私は心の底から誰であれ脱がなくていいと思っているので、そこそこにして止めていただけると有難いです。

私事で恐縮ですが、男性が半裸になっている写真が載っているとわかっている場合、私はそういう雑誌は買いません。なぜかというと、仮に今、私が事故か何かで警察沙汰に巻き込まれたとしましょう。警察の方がうちに来て私の所有物を見てまわった挙句、男優さんのグラビアが載っている雑誌があったりすると「やっぱ独身女性ってこういうの好きなんだな」とか思われたら絶対イヤ!!!だからです。

普通にインタビュー記事だけ読ませてくださいよ。服を着てても十分魅力的でしょ。ほんっと頼みます。遣都くんも脱がないでね!!!

 

おっさんずラブ」はそういう乙女ラインというか、少女漫画ラインを守ってくださったのもよかった。

わかりやすいイメージで言うと、ラブシーンが「子犬のキス」「じゃれあい」でとどまっていること。最終回のラストでふたりの下半身をテーブルで巧みに隠し、矩を超えない表現で終わったのも手放しで絶賛できる要因になったと思う。

 

最後に、私が一番衝撃を受けたエピソードについて語っていいですか。「お粥を作ろうと思ったらお餅になった」件です。

いまだにこのシーンはとてもシュールに思えるのですが、もち米が春田家にあったのは、お母さんが買っておいたの?それとも牧くんがおこわとか炊いてたの?お粥を作ろうとして失敗するエピソードなら焦がす程度でも十分だと思うのだけど、なぜここでお餅になるの???一体どこからこのエピソードが生まれたの?遣都、アドリブで食べてるし!お餅!!

と、ここに一番ココロを揺らしましたかね。ことほど左様に明るくて振り切ってて泣けて笑って、良いドラマでございました。