伊勢物語の「筒井筒」をご存知でしょうか。
井戸のそばで遊んでいた幼なじみの男の子と女の子が、大人になってお互い想い合って結婚する、という話の序盤で歌のやりとりをします。
筒井筒 井筒にかけしまろがたけ
過ぎにけらしな妹見ざる間に
(一緒に遊んだ井戸の周りでたけくらべをしたね
しばらく会わないうちに僕はもうずいぶんと背も伸びて大人になったよ)
くらべこし 振り分け髪も肩過ぎぬ
君ならずして たれかあぐべき
(髪の長さを比べ合った子供の頃から私も大人になって髪も長くなりました
あなた以外の誰のためにこの髪を上げてお嫁に行きたいでしょうか)
(現代語訳は私のイメージです・・・文法的に正しくないかも・・・)
この話を突然思い出したのは、米津玄師「灰色と青」を聴いたからです。
「君は今もあの頃みたいにいるのだろうか」
「どれだけ背丈が変わろうとも
変わらない何かがありますように」
このフレーズを聴いて、ぽんっと筒井筒が飛び出てきました。背丈が変わる。背が伸びるではなく「まろがたけ」の「背『丈』」。たけくらべの丈。この「丈」がフックになって、私の中の古典の引き出しがガラガラっとふたつみっつ開きました。
かつて共に過ごしたふたりが今は離れてしまっている。でも、やり直せるならやり直したい気持ちもある。君は今どうしている?僕は背が伸びたよ。伸びる余地があったくらい僕たちは幼かったんだね。
これは筒井筒でもあるけれど、夕霧の歌のようにも思えてくる。
雲居の雁ちゃんと長く離れてしまって、もうだめなのかな、と思っている夕霧。
「『何があろうと僕らはきっと上手くいく』と
無邪気に笑えた 日々を憶えている」
そして、夕霧さんは明け方の電車に揺られて歌っているのです。
「朝日が昇る前の欠けた月を
君もどこかで見ているかな」
これは古典的情緒の基本中の基本、「有明の月に君を想う」ですね。つれなくされたり、待ち焦がれたり、千年前の公達が詠った有明の月を、平成の公達も歌う。いにしえの歌人たちが切磋琢磨した日本語の技術と精神を、千年後の青年が間違いなく受け止めて歌い上げる。その美しい瞬間に私たちは立ち会えたのだと言えましょう。
ところで、歌い出しが「袖丈」ですが、「丈」は何かお気に入りワードなんですかね、たまたまですかね。どっちでもいいですけど、米津玄師さんが古典がお好きだと嬉しいです。ツイッター見ると室生犀星を読んでらっしゃいますね。室生犀星、いいですよね。私も好き。
久々にイメージが膨らむ歌詞に出会えてときめきました。ありがとうございます。しばらくBOOTLEGはヘビロテになりそうです。