がんばろうぜと歌うひと

エレカシ「俺たちの明日」について語ります。

2007年の発表ですが、私はいつどこでどうやって聞いたか覚えていなくて、ただじっと最後まで聞いて「こういう歌詞も書くようになったんだな」とある種の感慨を覚えました。

こういう、とは、我を抑えた歌詞。我を抑えるとは我慢することではなく、他者と共存できるということ。

以前にも書きましたが、宮本ワードの特徴は、浮世、浮雲、かりそめ、しかばね等々、文語で文学的なものが多いと思います。もちろんそれだけではないのですが、これらは他のミュージシャンの歌詞にはあまり出てこないという意味で宮本くんの個性なのだと思います。

「俺たちの明日」にはこういう言葉はない。誰でもが使いうる日常的な言葉が連なっていて、ガリッと引っかかるところがない。ここが私には新鮮で驚きでした。あれだけガリガリ心に引っかかる歌詞を書いていた人がこんな平易でなめらかな歌をうたうなんて。バンドが本来持っている陽の空気感が全面に出ているなと思いました。

エレカシの4人は、実のある男たち、という印象を人に与えると思います。根がひねくれていないというか深刻なトラウマを抱えていなさそうというか(抱えていたらごめんなさい)。この人たちについて行ったら食いっぱぐれがなさそうというか、いつも米の飯食ってそうというか。病んで地獄に落ちるようなことがなさそうなんですよね(地獄に落ちてたらごめんなさい)

「がんばろうぜ」「負けるなよ」「でかけようぜ」という言葉はシンプルすぎて、そぎ落としすぎて、そこに宮本くんの決意を感じます。世の中に寄り添う言葉を選んだのだと思います。人に添った仕事だからこそ広く世間から評価されたのではないかなと思います。

 

宮本くんの歌詞のもうひとつの特徴は、言葉をシンプルにしても抽象化しないところにあります。

シンプルが極まって抽象化する例として八木重吉の詩を挙げますと

 

 

「悲しみ」

 

かなしみと

わたしと

足をからませて たどたどとゆく

 

 

「美しくすてる」

 

菊の芽をとり

きくの芽をすてる

うつくしくすてる

 

 

ひらがなは言葉を純化すると思います。「悲しみ」が「かなしみ」に、「菊」を「きく」、「美しく」を「うつくしく」に変えることで意味よりも音が視覚化されて祈りのようになっていくと思うのです。

宮本くんの歌詞は純化はされない。地に足をつけた人が歌っていると思える。生きている人の熱量を感じる。だからエレカシの歌は強くたくましく響くのだと思います。

 

もし、「俺たちの明日」が私のファースト・エレファントカシマシだったらどうだったかなと考えるのですが、多分、「こんなに単純な歌詞を思い切り歌うなんて只者じゃないな」と思うような気がします。いつどこで出会っても好きになったと思いますし、この先も、いつでも初対面のような新鮮な気持ちで聴いていきたいと思っています。

 

 

 

では、また。