夏目漱石「琴のそら音」

今回は、好きな小説のお話です。
夏目漱石の「琴のそら音」という短編小説をご存知でしょうか。1905年、「吾輩は猫である」と同年に発表されてます。漱石がまだ文豪でもなんでもなかった時期ですね。
主人公は、大学を出たての男性で、東京の一軒家に婆やと一緒に住んでいる。この婆やは婚約者の家の紹介。大学時代の友人の津田という学者のところを訪ねた時に、幽霊話というか死にまつわる不思議な話を聞くところから話は始まります。
ネタバレはしたくないので、これ以上のあらすじは控えますが、私の感想は「金之助くんて鏡子ちゃんのことホントに好きなんだね。ふーん。結婚できてよかったねえ」という感じです。ラブコメで少女漫画なんですよ、「琴のそら音」って。漱石先生、全力でふざけたわね、と私は思ってます。
鏡子夫人は悪妻扱いされていましたが、「琴のそら音」と「吾猫」を読むと、鏡子大好き&うちの子可愛いとしか言ってないと思うんですよ。漱石を崇拝するインテリ男性たちが鏡子さんに嫉妬して悪妻に仕立てたとしか思えません。自分たちの方が漱石の思想や小説を理解していると自負してみても、鏡子さんのように漱石に愛されて漱石の子供を産むことはできないじゃないですか。悔しさのあまり鏡子さんを悪く言うことでマウント取ったというか、パワハラの一種ですよね。インテリで社会的地位も発言力もある側から、社会に対して意見を発表する場のない人間に対する封じ込めですよ。
原典である小説を読んだら、漱石の鏡子愛がダダ漏れてるのがわかるのに、世の中は「悪妻だ」という風評を鵜呑みにしがちなのですね。
私がこういう解釈をするようになったのは成人してからです。漱石を初めて読んだのは小3の時、「吾猫」が、人生初の「何かにぐっと引っ張られたような体験」でした。書かれていることなど理解はできなかったのですが、本の中に引き込まれた感じを覚えています。そして、漠然と「これが日本語なんだな」と思いました。ここから私の言葉に対する興味やこだわりが始まりました。私の日本語の基準は今でも夏目漱石に置いています。
中学生くらいまでは純粋に漱石はすごいと思っていて、「私の個人主義」とか好きでした。でも、自分が大人になるにつれて、鏡子夫人を当てている女性と、そうではないだろうマドンナとか美禰子とでは、鏡子夫人の方が生き生きしているなと思うようになりました。
「道草」の一節。
「単に夫という名前が付いているからというだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと強いられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を有った人間になって自分の前に出て来るが好い。夫という肩書などはなくっても構わないから」
主人公の細君がこんなにキツいことをハキハキ言ったわけではなく、主人公が細君という人物をこう見ているという描写ですが、大抵の男性は自信喪失しそうな考え方ですよね。でも、主人公はこの考え方をよく理解している。細君とは歯車が噛み合わない描写がほとんどにも関わらず。つまり、漱石はこういう考え方をする女性、すなわち鏡子夫人の個人としての人格を面白いと思い、誇らしくもあったのだろうと推察します。
「道草」では主人公と細君の会話の文体も多いですが、噛み合わなさも含めてテンポがいいなと思いますし、お似合いのカップルが生み出すテンポだよなとも思います。諍いやお互いの欠点も含めてどこか深く手をつないでいるふたり。漱石先生さすがだなと思います。
かように、私は夏目漱石が一番好きではあるのですが、漱石以外に子供の頃に影響を受けた作家・作品は、獅子文六「悦っちゃん」、三島由紀夫「女神」、芥川龍之介袈裟と盛遠」、ヘッセ「デミアン」、トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」です。
加えて、私の精神の半分はモンゴメリ、もう半分は萩尾望都でできているので、何を見ても聞いても、まず、少女小説と少女漫画の要素を求めてしまいます。モンゴメリに象徴される少女小説萩尾望都に象徴される少女漫画が大好きだということです。
あの、それで、ちょっと宮本話をしてもいいですか。私はずっと、なぜ宮本くんの歌詞を何の疑問も持たずに受け入れてしまうんだろうと思ってきたのですが、若い頃のインタビューから永井荷風がお好きだとは知っていたんですね。それで、たぶん、読書傾向が近いのかなと思っていました。比較的最近のインタビューでも、永井荷風森鴎外夏目漱石が好きだと仰っていて、ああ、やっぱり近いかなと思ってはいます。明治大正、あるいは昭和初期、漢籍の教養が残っていた時代の作品といいますか、読んでいると、世の中の善なるもの、美というもの、品性や知性とはこういうものなのだと言われているように感じられて、とても好きな時代です。
ええと、大丈夫ですよ、宮本様のようなロックスター様と自分を同列になど考えてはおりませんので、ただ、大好きな宮本くんと少しでも似た何かがあると嬉しいというファン心理なだけです。
最後に、ブログを書くにあたっては、一対一のルールといいますか、ひとりの男性について話題にする時は他の男性の話はしないことにしているのですが、今回は宮本話を加えました。漱石が歴史上の人物であり文豪であるからいいだろうと思ったわけではありません。漱石だとてひとりの男性に違いはありません。
「でも、漱石先生、私、先生の小説が好きなことには変わりはないのだけど、今は宮本さんて方が一番好きなの。ごめんね、金之助くんは二番になっちゃった。許してね」
と言ったら、こいつ何言ってやがるという顔をしつつも、内心はこのふざけた小生意気な言動を面白がってくれると確信するからです。夏目漱石とはそういう方だと思います。


私は「夏は読書」という子供でしたので、小説の話をしましたが、私の日本語の形成には詩も大きく関わっています。その話はまた後日。