コーネリアス「Mellow Waves」

楽家についてはその人の音楽で語るのが本道だろうと思います。コーネリアス小山田圭吾さんのアルバム「Mellow Waves」の感想を書きます。

「The Rain Song」がとても好きです。

 

 

ぽつぽつぽつ

雨が 歌う

ぽつぽつぽつぽつぽつ

メロディー 響く

 

段々窓の外 季節が変わる

 

ぽつぽつぽつぽつぽつぽつ

どこか 心運び出す

 

ぽつぽつぽつ

雨が 描く

ぽつぽつぽつぽつぽつ

模様 形

 

点々水たまり 浮かんでは消える

 

ぽつぽつぽつぽつぽつぽつ

どこか 心連れ出す

 

ぽつぽつぽつぽつぽつぽつ

雨が どこか連れて行く

 

あー

 

 

以上、歌詞全文ですが、これを一筋のメロディに沿って歌っているのではなく、音と言葉を一緒に空間に配置しています。「ぽつ」「ぽつ」「ぽつ」と区切って歌うことで雨だれのイメージになり、言葉の音と音楽の音が混ざったり重なったりしながら穏やかで踊るようなリズムが生まれている。ああ、言葉も音だと知っている人だ、言葉を音符と一緒に鳴らしているのだと思いました。

言葉少なだけど、音はとてもおしゃべりですね。ユーモアがあって美しい音。これが小山田さんなんだなと思いました。

フリッパーズギターの頃から存在は知っていましたが、渋谷系と呼ばれる音楽はなんかちょっと薄暗い感じがして、すべてが間接照明の元で行われているというか、自分の好みとは違うんじゃないかなと思ってました。

 

この夏の小山田さんの件、元になった2誌のインタビューは結果的に広い範疇に暴力を振るったのだと思います。小山田さんに近しい方々、ファンの方々、いじめの被害者、障害を持った方、及びそれぞれの身内、このいずれにも属さない私ですら読んでいて心が苦しくなりました。特にいじめ被害者と障害のある方の経験や考えをネットで読んでいるのがつらく、そこには恐怖と絶望しかなかったと思います。

事実と異なる部分については小山田さんご自身が9月17日に文章を発表してらっしゃいますが、私はこの文章に真摯さを感じました。自分の言葉で語ることは更なる炎上を招きかねない恐れもあったと思うのですが、それでも言葉をつづる勇気にお人柄を見たような気がします。

私が思ったのは、小山田さんの子供時代の友人関係など誰にも関係ないということです。インタビューで本人が話したことを理由にしてアカの他人が口を出すことではない。小山田さんの反省は小山田さんだけがすればいいことだと思います。

小山田さんには休養の後に音楽活動を再開してほしいです。音楽家にはそれ以外にすることもできることもやるべきこともないと思います。また美しい音楽を聴かせてください。まさか小山田圭吾の音楽を聴く日が来ようとは思ってもいませんでしたが、ファンがひとり増えましたよ。私は小山田さんの音楽が聴きたいです。待っておりますね。

 

私は子供の頃、いじめやその萌芽のようなものを目にすると「なんでそんなことしてるの⁉」と口に出してはばからないような傍若無人な子供でした。が、暴力を伴うようなものは見たことがないので自分に本当にどこまで胆力があるかはわかりませんし過信もしていません。でも、今回の件は小山田さんに対する誹謗中傷が度を超えていたと言いたいです。つまり、私は怒っているのですが、怒りを露わにすると人は聞く耳を持ってくれないと考えるので「曲を聴いて感想を書く」という王道を選びました。私など何の力もない一市民に過ぎませんが、とりあえず栗拾いとしっぽを踏むのはそう苦手ではないので意見表明として書いておきます。

 

 

では、また。

 

 

松田聖子「未来の花嫁」

松田聖子さん「未来の花嫁」について語ります。作詞は松本隆さん、作曲は財津和夫さん。

1982年発表のアルバム「Candy」に収録されています。高校生だった私はクラスメートから借りて聴きました。当時は聖子ちゃんのアルバムが出るとクラスで貸し借りが飛び交ったものです。

この歌は、友人の結婚式に参列したカップルの女性視点で歌われます。

 

 

空カン ひきずって

あの娘 彼と車にのるの

 

花びらを散らして

鐘が鳴り響くわ

 

あなたはネクタイを

ゆるめながら 退屈な顔

 

私たちの場合

ゴールは遠そうね

 

 

友人のウエディング姿を心の奥で羨望しながら、隣の彼の退屈そうな顔に落胆と焦りと苛立ちがない交ぜになる彼女。次のサビでこう歌います。

 

 

プロポーズはまだなの

ねえ その気はあるの

瞳で私 聞いてるのよ

 

 

高校生の私にはこのサビは衝撃でした。えっ、女性からこんなことを言ってもいいんだ・・と怖いものを見たような気持ちになって、聖子ちゃんみたいな可愛い女性だから許される台詞だよなあと、可愛くもなんともない地味な自分には一生口にすることのない言葉だと思いました。

今年、松本隆さんのトリビュートアルバム「風街に連れてって!」を聴きました。宮本くんが歌う「SEPTEMBER」目当てでしたが、収録曲の中では「風をあつめて」以外はリアルタイムで聞いた懐かしい曲ばかりです。

「SEPTEMBER」は男性の気持ちが自分から離れていくのに気がついている女性の歌ですが

 

 

セプテンバー そして九月は

セプテンバー さよならの国

ほどけかけてる 愛のむすび目

涙が木の葉になる

 

 

この後にこの女性が何を言うかというと

 

 

逢ってその人に頼みたい

彼のこと返してねと

でもだめね気の弱さ 唇もこごえる

 

 

「彼のこと返してね」、ああ、これは「プロポーズはまだなの」と同じだ、女性の本当の気持ちなんだとはたと気がつきました。他の女性に魅かれていく彼に気がつきながらもどうにもできなくて、別れを受け入れるしかないとわかってはいるけれど、彼やその女性を責めたりなじったりする言葉で女性の心を表現するのではなく、彼を返してほしいというこの女性にとって一番大事な望みが描かれている。

ふたりの女性は直接は言わない。言わないけれど心で思う本当の気持ちは怖くて厳しい。そもそも、「赤いスイートピー」でも「ちょっぴり気が弱いけど」と男性を見る目は甘くはない。

高校生の頃にはただ驚くだけだった「未来の花嫁」も、自分の本当の気持ちを知ってそれに向き合って自分の言葉で語ってよいのだという道標だったんだなと今は思えます。なにより、女性を描くことに揶揄がない。適齢期の女性の焦りを面白おかしく描こうと思えばできると思う。でも、そんな歌が人の心に届くはずもない。人の気持ちの核心を描く偽りのない歌だから歌い継がれてきたのだと思う。どの時代にもいい歌はあるけれど、自分はこういういい歌を聞いて育ったんだな、と時代の巡りあわせに感謝をするばかりです。

 

 

では、また。

 

 

永井荷風「濹東綺譚」「つゆのあとさき」

永井荷風「濹東綺譚」「つゆのあとさき」を読み終わり、只今「あめりか物語」を読んでいるところですが、少しばかり感想を書きます。要所をネタバレますので未読の方はそのおつもりで。

 

荷風先生は無条件で受け入れてくれる愛情を求めていたのかなと思いました。

「濹東綺譚」から気になるところを引用しますと

「『あら、あなた、大変に濡れちまったわ。』と傘をつぼめ、自分のものよりも先に掌でわたくしの上着の雫を払う。」

「『さア、お上んなさい。』とお雪は来る筈の人が来たという心持を、其様子と調子とに現したが」

この下線のところ、さらっと書かれていますが、自分も濡れているのに「わたくし」の上着の雫を払うことを優先してくれたこと、「わたくし」の訪問を目に見えて歓迎してくれたこと、心に真っ直ぐ入り込んでくる好意を黙って受けながら荷風先生がじんわりと喜びを感じているように思います。

「お雪は今の世から見捨てられた一老作家の、他分そが最終の作とも思われる草稿を完成させた不可思議な激励者である」

「わたくしは散歩したいにも其処がない。尋ねたいと思う人は皆先に死んでしまった。風流絃歌の巷も今では音楽家舞踊家との名を争う処で、年寄が茶を啜ってむかしを語る処ではない」

荷風先生は1人でお住まいでしたよね。ご自分で選んだスタイルとはいえやっぱり寂しかったんですよね。雪ちゃんの職業は世間的には低く扱われるものだったと思うのですが、荷風先生は「彼女達の薄倖な生活を芝居でも見るように、上から見下してよろこぶのだと誤解せられるような事は、出来得るかぎり之を避けたいと思った」と言い、雪ちゃんのことを「ミューズ」とさえ言っている。

 

「つゆのあとさき」では、終盤の君ちゃんと「おじさん」のやりとりが秀逸というか、女給で身持ちが軽すぎる君ちゃんが昔の客の報復にあってケガをして、もう東京を離れようかなと思っているところに、そもそも君ちゃんの上京当時に色々悪いことを教えたおじさんが同じく尾羽打ち枯れた姿で現れて、なんとなくその様子に君ちゃんは「出来ることならむかしの話でもして慰めて上げたいような気もしたのである」。

ここの空気感が怖いくらい澄み切っていて、最後「おじさん」は君ちゃん宛に手紙を残して消えます。その中の「私はこの世の御礼にあの世からあなたの身辺を護衛します。そして将来の幸福を祈ります」が、荷風先生の日蔭の女性たちへの真心のようにも読めました。

 

うーん、荷風先生、先生の家族や婆や(いいとこの子なのでいたよね?)はこういう明け透けな愛情を与えてくれなかったの?示してもくれなかったの?「次郎物語」の乳母のお浜みたいに、よその子にもあふれる愛情を注ぎこむような女性が身近にいなかったのかしら。日蔭の女性たちだけがそれを与えてくれたってこと?

だったら、私みたような女学校を卒業して先生のお書きになる難しい本も好んで読んだりする進歩的な婦女子はあまりお好きではないのかしら。でも、「つゆのあとさき」の鶴子さんみたいな学がある良家の女性のことも悪くは書いていないし、鶴子さんが洋行するのも普通のことみたいに書いてらして、進歩的な女性はそれはそれでお嫌いではないと思うけど、先生を慰めてくれるのは葵上ではなく夕顔だってことなの?

私はどういう女性の心にも無償の愛は宿っていると思うの。私だって先生が寂しい時にはハグしてさしあげてよ?あ、でもハグまでね、それ以上はダメです。私の操は宮本さんて方に預けてるの。先生のことも宮本さんに教えていただいたのよ。私が一番好きな人なの。今度ご紹介するわね、歌がとてもお上手で素敵な方なのよ・・。

 

 

というわけで、宮本浩次さんがYouTubeで「濹東綺譚」を数行朗読したことで中学生の時に挫折して以来読んでなかった永井荷風の言葉が私の中で血肉となって得た感想を「荷風先生と私」にてお送りしました。

私の読書は作者との対話なので自然こういう感想になるんですよ。宮本くん、ありがとう、ようやく永井荷風が読めました。また何か朗読してくださると嬉しいな。やっぱり森鴎外かしら。高校生の時に「舞姫」の最後で怒ってしまって鴎外はあんまり読んでないんですよ。今読むと感想変わるかな。ま、その話はいずれどこかで。

 

 

では、またね!

 

 

あいみょん「君はロックを聴かない」

今回は、あいみょん「君はロックを聴かない」について思ったことをちょっとだけ書きます。

あいみょんちゃんは声が好きでアルバムもいくつかipodに入れてます。この曲を聴いた時に「ああ、私のことね」とナチュラルに思いました。ロックバンドについてさんざん語っていますが、私の自意識としてはロックを聴いているつもりはないんですよ。10代の頃に音楽少女ではなかったからかもしれません。

 

 

君はロックなんか聴かないと思いながら
少しでも僕に近づいてほしくて
ロックなんか聴かないと思うけれども
僕はこんな歌であんな歌で
恋を乗り越えてきた

 

 

私は20代の頃、同世代のロックミュージシャンをこんな風に感じていたのかもしれない、と思いました。僕らの歌を聞いてくれ、という声無き声を受け止めようとしていたのかもしれない。

エレカシユニコーンジュンスカ、ピーズ、ニューエスト・モデル岡村靖幸くんもデビュー時にはアルバムを聴き倒しましたよ。曲を聴く前に歌詞カードを読むような邪道な人間でしたが、聴いていてとても楽しかった。

ロックを聴かないというのなら私は一体なにを聴いていたのかというと、「詩情」だと思います。歌詞に声に音に詩情を感じて求めていたのだと思う。たぶん。当時はそこまで詰めて考えていなかったので後付けと言われても仕方ないですが。

そのことを、あいみょんちゃんの歌に自覚させられたなーと思っているのです。ロックを歌う男の子が違う世界の女の子にコミュニケーションを求めているこの歌は、私にはとてもリアルに聞こえました。「フツフツと鳴り出す青春の音」というフレーズもいいですね。手探りでもがいている人生の一時期が過去となった人にも現在進行形の人にも心当たる表現だと思います。

 

あいみょんちゃんの歌をもうひとつ、「生きていたんだよな」。

日本語のラップは(この歌をラップと呼ぶかどうかはともかく)やはりこの「語り口調」が洗練されて聞こえると思いました。立て板に水的に一気呵成に歌い下ろすスタイル。この歌は若い女の子の自死を歌っていますが、ショッキングな内容が一瞬耳目を引くかもしれないけれど、それよりも歌い方に引力があるんだと思いました。

最後にひとつ告白しますと、あいみょんちゃんは私よりも「お姉さん」に感じています。カッコいいお姉さんが素敵な歌をうたってるような感じ。遥か年下の娘のようなお姉さん。これから年を重ねてどういう歌をうたっていくのか楽しみです。

 

では、また。

 

 

歌詞について聞いてみたいこと その4

歌詞について聞いてみたいこと。今回は忌野清志郎さんです。問いかけても答えは得られない以上、この世にいてもあの世にいても変わらないので構わず話しかけます。

 

①ヘッセを読んでらしたと昔のインタビューで読んだのを覚えていますが、どの作品がお好きなのでしょうか。

本当に答えの得られない問いですが、インタビュアーさん達にお願いしたいのは、取材対象の方が好きな作家について話した時は、どの作品が好きかまで聞いていただけると嬉しいです。インタビュアーさん自身が読んでいなくても「自分は疎くて申し訳ないのですが、ファンはきっと知りたいと思うのでお好きな作品名を教えて頂けますか」くらいはお願いします。このインタビューでもこれ以上の情報はなくてガッカリしました。

 

②「COVERS」について

発売中止になったことで清志郎さんは「民主主義なのに出してもらえなかった」といろんなメディアでおっしゃっていましたが、民主主義だからこそレコード会社にも断る権利はあるという考え方は耳に入ったことはあったのでしょうか。作品の良し悪しではなく、発売しないと判断する理由の良し悪しでもなく、「発売しない」という結論自体には何ら問題はない。清志郎さんが怒ることも当然。でも、民主主義という言葉を使うなら、レコード会社の権利も認めなければいけない。自分があたかも被害者かのように振る舞う、少なくともそう見える行動はメディアで発言する機会を持っている側の横暴なイメージ操作だと思う。レコード会社に1点問題があったと思うのは「素晴らしすぎて出せません」ではなく「素晴らしいことはわかっていますが、今回うちでは出しません」でよかったと思う。

これが私が清志郎さんの主張に賛同できなかった理由で、ここから徐々にRCサクセションから離れて、日本のロックから離れていったのですが、当時20代前半の小娘の私が発想できたくらいのことは、誰かが清志郎さんに言ったのではないかと推測します。が、テレビや雑誌の清志郎さんは怒りを隠そうともせずに「出してもらえなかった」と主張し、インタビュアーさん達も「そうですよね、ほんとにそうですよね」と同調するばかりで私は心底うんざり&ガッカリしたものです。

この頃のインタビューで「(海外でレコーディングか何かされた時に)英語のthの発音を歯で舌を挟むと聞いていたけど、そんな発音をしている人はいなかった」と事実誤認発言があったのですが、ここでもインタビュアーさんは「そうですよね、ほんとにそうですよね」的な相槌を打っていて、インタビュアーさんにも知識がなかったとしても、これはほめ殺しだと思いました。みんな清志郎さんが好きだったがゆえに異を唱えて更に怒らせたくなかったのかもしれないけれど、怒りを露わにすると忖度されてロクなことにならないんだなと遠目に見る感じでした。インタビュー自体も読まなくなりました。静かに見切りをつけたという感じです。

 

「COVERS」の歌詞についてですが、これは藤原定家の言う本歌取りだと思います。

 

本歌取りは、古歌の世界を足場にして、新たな表現を作り出す技法である。つまり、盗作や剽窃紙一重なのである。実際、新しさが作れずに、失敗に終わった作品も数多い。しかし、成功した場合には、それまでの歌に見られない鮮やかな効果を発揮した。古歌の世界が背景となって、複雑な奥行きのある世界を生み出すことができたのである」(角川文庫「ビギナーズ・クラシックス 新古今和歌集」より)

 

カバーアルバムだけれど英語のまま歌っているわけでもなく、原曲の和訳でもない。日本語で新しい物語を歌った素晴らしいアルバムなのですが、清志郎さんの怒りのせいで正当な評価がどれだけ得られたのだろうかと思います。

その時は本歌取りという発想は私もできなくて、日本語への翻訳(直訳ではなく)くらいにしか理解できなかったのですが、清志郎さんの描く世界は大好きでした。

サマータイム・ブルース」はコンサートで初めて聞きました。このアルバムが世に知らされるちょっと前のことです。歌い出しが「暑い夏がそこまで来てる みんなが海へくり出していく」なので、会場はわーっと盛り上がったのですが、続く「人気のない所で泳いだら 原子力発電所が建っていた」で、あれ?これ何?盛り上がっていいのかな?という戸惑いが場内を包みました。私も何だったんだろうと思ったものの、特に深く考えず、原子力発電所という単語もすぐに忘れました。

なぜ清志郎さんはあんなに怒りを持続させたのだろうかと思いますし、そこを聞いてみたいとも思います。今の私なら清志郎さんが怒ろうがなんだろうが質問できます。「壮大なほめ殺しをされているように見えますが、ご自身ではどう思っていらっしゃいますか?」「そうですよね、ほんとにそうですよね、と言われて不気味に思いませんか?」「そんなことより英語の歌詞を日本語に変える時の発想について語ってくれませんか?何がこの素晴らしい歌詞を可能にしたのですか?」

孝行したい時に親はなし、という気分です。そして実は今でも清志郎さんの怒りは正しかったと誰か私を納得させてくれないかな、と20代の青い自分が小さく存在したりします。親を否定するのはつらいものです。

 

今回は思い出語りになってしまいましたが、当時ネットも無く誰にどこに言う手段も無くて黙って思っていたことを忌憚なく述べました。天国で清志郎さん怒っているでしょうか。どうかな?

 

 

では、また

 

 

宮本浩次「縦横無尽」

宮本浩次さんのアルバム「縦横無尽」の感想です。

「光の世界」と「rain 愛だけを信じて」がとてもとてもよかったです。

 

悲しい日々に byebye
破れし夢が躍動してる
賑やかな休日の午後
俺は車を走らせてた

消せども消えぬ想いと
とめどない ナウ・アンド・ゼン
ここが俺の生きる場所 光の世界

 

「光の世界」の歌声は女性のようでもあり青年のようでもあり、感情の起伏のない歌詞に気持ちが和らぎます。エレカシ初期にもこういう叙景的な歌詞はありましたが、若さゆえの孤独も猜疑もここにはもう無いと思います。今の宮本くんが本当に充実しているのが感じられます。

このアルバムは全体的に歌詞に磨きがかかっているように思います。

 

「君は孤独な胸に静かに忍び込んで
 匕首をうなじにあてて笑ってた」

「ある時はロマンチシズムそのものの顔をして
 ある時は白けたリアリスト やっぱり」(「stranger」)

 

上田敏訳の外国の詩のようだと思いました。

 

「来たぜヤツが コートの襟を立て
 そぼ降る雨に濡れながら
 午前0時浮世小路に ああ 真実だけが足りない」(「浮世小路のblues」)

 

「来たぜヤツが」から曲がじわじわと盛り上がっていって「真実だけが足りない」で言葉が踏切板に足をかけた直後に宮本くんのシャウトが地の底から最高潮に響き上がっていって、とてもドラマチック。アニメの主題歌にもよさそう。鬼太郎さんとかドロロン閻魔くんとか(お若い方は検索なさってね)。

 

「good luck 愛すべき憂き世に
 good bye 我が美しい日々に
 just do it ひとりの男の
 最後の勝負なのさ」(「just do it」)

 

英単語混じりの歌詞を見て、宮本くんは(この世代の多くのミュージシャンは)洋楽で育ったんだよなあ、と改めて感じました。カタカナよりも英単語の方が馴染みがよいということ・・?これはちょっと私の研究課題なのです。私は洋楽の素養はあまり無いので洋楽育ちの視点を知りたいのです。

最後に「rain 愛だけを信じて」について語ります。

 

愛を求めてさすらうheartは
きみを抱きしめたいこの胸の中に
わたしの全てを捧げたい
愛だけを信じて明日を抱きしめたい
悲しみけむるrain
心に降りつづけるloneliness uuh loneliness

 

この歌は女性の持つ愛情と献身が見事に描かれていると思います。「わたしの全てを捧げたい」「きみを抱きしめたい」と明るくせつなく清らかに歌う宮本くん自身が、女性性の美しさを内包しているのだと思いました。

女性が愛を求める心情をどうして知っているのだろうとも思います。エレファントカシマシの「彼女は買い物の帰り道」は掌編小説のような歌ですが、「私は誰かを愛してる」「明日を誰かのために生きられるように」と、少女小説の根底を成している愛の希求をここでも歌っています。

ジョー・マーチがベスを失ってローリーも離れていって、初めてさみしいと心底思った時、ベア先生の愛情に頑なだった心が開かれたように、アン・シャーリーが「ギルバートのお兄ちゃんが死にそうになってるの知ってる?」とデイビーの無邪気な問いかけに蒼白になってようやく自分の中の愛を認めたように、この愛が自分を生かしていることを悟るシーンが少女小説では描かれます。この読後感と同じような、悲しみを知って知る本当の気持ちというものをこの曲に感じました。

また、室生犀星の「雨の詩」の一節、「雨は愛のやうなものだ それがひもすがら降り注いでゐた」も思い出しました。雨も愛も惜しみなく降り注ぐ。「rain」というタイトルに明るさが宿るのも、この慎み深い無償の行為の気高さゆえだと思います。

 

10月20日からツアーが始まりますね。宮本くんとツアーに関わるすべての皆様が健康で幸せに完走されますように、お祈り申し上げます。

 

 

では、また。

 

歌詞について聞いてみたいこと その3

歌詞について聞いてみたいこと。今回は奥田民生さんです。初めて言及するのでちょっと説明しておくと、同世代のバンドは20代の頃にそこそこ聴き倒したのでユニコーンも聴いていたのと、ユニコーンは少女漫画家さんのファンが多かったので特に印象が強かったんです。

 

質問はひとつだけです。奥田さんの語彙の成り立ちが私にはまったく見えなくて、「大迷惑」を聞いた時からとても不思議な存在でした。ご自身の言葉のルーツはどういうものだと思ってらっしゃるのか聞きたいです。

 

奥田さんの歌詞は私にはホバリングしているように聞こえます。ずっと地面から浮いて漂っている感じ。最近ループミュージックというものを知ったのですが、これの言葉版という感じでもあります。

「大迷惑」の歌詞で何がびっくりしたかというと、会社に転勤を命じられて妻と離れて単身赴任、それが「迷惑」というスタンスだったことです。私が転勤族育ちで転勤は当たり前と思っていたというのもありますが、転勤というシステムに対して抵抗したり拒絶したりするわけでもなく、ただ「迷惑」と感想を述べている歌詞。これは私が10代の頃に流行り出した「むかつく」と同じスタンスだと思いました。

むかつく、と対象に感想を言うだけで何もしないこの言葉は、無気力世代と言われた私の中高時代の世の中を象徴するような新語でした。社会と戦うのではなく、学校で窓ガラス割ったりして校内という狭い世界での暴力行為が猛威をふるった世代です。

奥田さんはそういう時代の気分を意図したのかしないのか、ともかく歌にしたんだな、すごいなと思いました。それ以来、新曲を耳にするとつい聞き入ってしまいます。相変わらず言葉が滞空しているなと思いながら。

以前テレビで「あまり考えてないから」というようなことをおっしゃっていて、物事を論理的に考えていないという意味かなと思いましたが、ホントに何も考えてなかったらここまで音楽で食ってこれなかったのではと私は思うので、世間で言う論理的な説明はいいので、奥田さん風味の表現で言葉のルーツを事細かに語ってほしいです。本とか漫画とか地元の言葉とか。どなたかインタビュアーさんお願いします。冷静に考えるとこの質問を30年以上持ち続けているんだなと思ったので今回書いてみました。いやまあ答えは得られないので今後も曲を聞き続けるしかないですが。

あ、つまり、この質問はどなたでも使っていいのでそれくらい知りたいということです。

 

 

短いですが、以上です。では、また。