恋せよ、傷ついたことがないように 「私の名前はキム・サムスン」

ルフレッド・D・スーザというオーストラリアの牧師さんの詩です。

 

 

       Happiness is a journey, not a destination.

  (幸福は旅の過程であり、目的地ではない)

  Dance, as though no one is watching you

  (踊れ、誰も見ていないかのように)

  Love, as though you have never been hurt before

  (恋せよ、傷ついたことがないように)

  Sing, as though no one can hear you

  (歌え、誰も聴いていないかのように)

  Work, as though you don't need the money

  (働け、金が必要でないかのように)

  Live, as though heaven is on earth

  (生きよ、今日が最後の日のように)

 

 

韓国ドラマ「私の名前はキム・サムスン」の最終回に出てきます(ネタバレではないですよ)。和訳は字幕から引用しましたが、最後の一行の訳が素敵ですよね。「地上の楽園」と直訳してもいいと思うのですが、「最後の日」の方がこの詩全体の意訳として最高だと思ってました。

ですが、最近ドラマを見直してみると、英文は出てこず、韓国語が「今日が最後の日のように」となっていました。つまり、日本語字幕は韓国語の直訳。てことは、英文から韓国語に訳した方がセンスがあるってこと?と思って、いろいろ検索してみると、元の英文が as if it were your last となってるものもあるらしく、スーザ牧師のオリジナルではないという説もあり?

 

まあ、いいや。ということにしました。

キム・サムスンの最終回にふさわしい詩には違いない、という本筋に話を戻します。

このドラマは2005年放送、最高視聴率50.5%という大ヒット作なのですが、全編詩情にあふれているところが心に沁みるのです。韓国ドラマのいいところはたくさんあるのですが、詩的モノローグが結構多いのもそのひとつで、詩が好きなのは国民性かな?と思います。

 

日本では、詩というものをポエムと揶揄する風潮がなんとなく感じられて、私はちょっともやもやします。たぶん、詩を読んだり書いたりすることを尊重する環境が少ないのだと思います。

私は子供の頃から詩が好きで、田中冬二、山之口獏室生犀星が特に好きです。他にも韃靼海峡のてふてふとか、海にゐるのはあれは人魚ではないとか、今は二月たったそれだけとか、忘れえぬフレーズも多々胸に詰め込まれています。

詩を好きになって読み慣れるにはどうすればいいのかと思っているのなら、ただたくさん詩を読めばいいのですが、なんとなく伝わりにくさを感じます。スポーツ選手が毎日トレーニングをするように、ピアニストが毎日ピアノを弾くように、毎日詩を読むだけです。基礎努力の積み重ねが、応用力と遠い先へ飛ぶ跳躍力を培うという、どこでも誰でもが耳にするであろう普通の話です。

 

私の名前はキム・サムスン」はサントラも素敵です。クラジクワイ・プロジェクトという3人ユニットが手掛けています。それまでの韓国ドラマは泣きの入ったバラードか、もしくはトロット(日本の演歌)風の主題歌が定番だったのですが、キム・サムスンから新しいスタイルに変わったとも言われています。今でも泣きの入った主題歌は健在ですし、それはそれで韓国ドラマの魅力ではありますが、キム・サムスンはいろいろと変革を起こしたドラマなのです。

 

米津ワールドの女の子 その2

今回はアイネクライネちゃんです。

 

 

あたしあなたに会えて本当に嬉しいのに

当たり前のようにそれらすべてが悲しいんだ

今痛いくらい幸せな思い出が

いつか来るお別れを育てて歩く

 

 

10代半ばくらいの女の子のイメージで聞きました。「あなた」への思いをずっと語るのですが、アイネクライネちゃんはかなり後ろ向きです。

 

誰かの居場所を奪い生きるくらいならばもう

あたしは石ころにでもなれたらいいな

 

とか

 

あなたが思えば思うよりいくつもあたしは意気地ないのに

 

だの

 

あなたが思えば思うより大げさにあたしは不甲斐ないのに

 

などとグズグズ言うのを止めません。更には、「あなた」が「あたしの名前を呼んでくれた」やら「あなたの名前を呼んでいいかな」やら、もうそんな人間関係の基本中の基本でまだ躊躇してるわけですよ。10代だとしょうがないかなとは思います。好きな人に名前を呼ばれたらドキドキするし、相手の名前を口にするのも心臓が飛び出るほどの大事件なのもわかります。

しかも「いつか来るお別れを育てて歩く」などと逃げを打っている。10代の考えるお別れは、いつか会わなくなるくらいの意味合いだろうけれど、別れなど気にせずに今を生きたらいいものを、「今痛いくらいの幸せ」を素直に受け止めない。相手の名前もさっさと呼ばない。クライネちゃんはいちいち引っかかってつまずいて、重くてとても面倒くさい。

でも、大人になって大化けするのはこのタイプだと思うのです。

子供の頃から器用で人間関係も上手に立ち回れるタイプは大人になってもそのまま順調で、それは結構なことなのですが、ちょっと面白くないかな、と私は思います。

 

 

お願い いつまでもいつまでも超えられない夜を

超えようと手をつなぐこの日々が続きますように

閉じた瞼さえ鮮やかに彩るために

そのために何ができるかな

 

 

クライネちゃんは「何ができるかな」と考えている。自分は意気地がないとか不甲斐ないとか石ころになりたいとか言いつつも、一筋の道を見出そうとしている。

好きな人に名前を呼んでもらいたい、自分も呼びたい、でも自信なくて思い切って言えなくて、言ったところで応えてくれなかったらどうしよう、いや、応えてくれたって、その先何を話せばいいの?話して失望されたら?退屈だって顔をされたらどうしたらいいの?ああ、もうあたし自分の感情がからまってよくわからない。やっぱり石ころに?いや、ちがうな。あたし本当はそんなこと思ってない。あたしが本当にしたいことは、あなたとただ仲良くなりたいだけ。あなたの話も聞きたいし、あたしの考えてることも聞いてほしい。仲良く、仲良く、話をしたら仲良くなれるのかな。でも、話さないと始まらないか。恥ずかしいけど、笑われるかもしれないけど、おはようって声をかけてみよう。この歌聞いた?私は好きだけどあなたは?そんなくらいから始めてみようかな。ああ、考えただけで顔が赤くなる。大人になったらもっと上手にできるようになるのかな。このドキドキはおさまるものなの?

 

 

アイネクライネちゃんは、からまってもつれた感情の糸を、まずはゆっくりと時間をかけて一本一本丁寧にほどいて、それらをまた一本一本吟味してあらためて編み直していくのです。どんな些細な気持ちも隠さずに大事にするクライネちゃんの芯に、やがてしなやかで強い糸が生まれる。たぶん、その頃には、どんな戸惑いも動揺も受け止めることができる魅力的な女性になっていると思うのです。

この曲はメロディが甘くて華やかで可愛くて、クライネちゃんの前途を祝福しているようにも思えます。

 

 

 

産まれてきたその瞬間にあたし

「消えてしまいたい」って泣き喚いたんだ

それからずっと探していたんだ

いつか出会えるあなたのことを

 

 

 

わたしは何を得ることであらう

わたしは必ず愛を得るであらう

その白いむねをつかんで

私は永い間語るであらう

どんなに永い間寂しかつたといふことを

しづかに物語り感動するであらう

 

 

後の6行は室生犀星「愛あるところに」です。アイネクライネちゃんと同じことを言っていると思いませんか?私は最初にこの曲を聞いたときに、この詩を思い出しました。中学生のときに大好きだった詩です。ずっと探していた愛。わたしは必ずその愛を得る。人生における最初の愛の衝動を歌ったふたつの詩。米津さんと室生犀星、詩人の魂はこんな風に呼応しあうのですね。

 

 

 

 

 

米津ガールズのお話はここで一旦休憩します。大好きなふたりの女の子を書いたので、ちょっと気が済んだかな。

ところで、「BOOTLEG」にはこういう女の子がいないような気がします。私が見いだせないだけかな。ざっくり言うと、「YANKEE」は少年漫画で、「Bremen」は少女漫画。「BOOTLEG」では米津さんは大人の男のひとになった感じがします。背筋が伸びた感。その分、女の子メンタルが薄い。

いや、いいんですけどね。まだ書きたいことはあるし、この前髪重い子ちゃんへの興味が尽きることはなさそうなので、ぼちぼち書いたり書かなかったりしていきます。ファンにできるのは愛を語ることだけですので。

 

 

電車は電気で走れ

私は愛で動く

(by 村山槐多)

 

 

米津ワールドの女の子 その1

最初はフローライトちゃんです(曲タイトルを擬人化してお送りしております)

 

 

君が街を発つ前の日に 僕にくれたお守り

それが今も輝いたまま 君は旅に出ていった

今は何処で何をしているかな 心配なんかしていない

君のことだからな

 

 

この歌い出しのところで、ああ、この女の子いいな、と思いました。

自分の世界があって、彼氏を置いて旅に出る行動力とおそらく財力もある。しかも、旅に出る側が、待つ側にお守りを渡す。普通、逆ですよね。これはフローライトちゃんの戦略ではないでしょうか。自分が旅に出ている間に、このお守りを見て自分を思い出してね、他の女の子に目を向けないでね。それと、ほんとに彼氏が好きだという気持ちも込めていて、私を待つあなたに災厄が降りかかりませんように、との祈りを形にして手渡したのですよ。

彼氏の方はというと、「心配『なんか』していない 君のことだから『な』」ってさ、能天気?てか、ちょっとばかだろ、この彼氏。「な」じゃねえ。少しは心配しろ。ほんっとにこの「な」の一音で、この彼氏の性格がよくわかる。大雑把で呑気だけど、明るくて人当たりは悪くない。彼女のことも素直に好き。

 

ここから先の歌詞は彼氏のモノローグだけで、フローちゃんの動向はわからないのですが、見事なまでの「婦」唱「夫」随なのです。

 

 

君が思うよりも君は 僕の日々を変えたんだ

二人でいる夜の闇が あんなに心地いいなんて

この世界のすべてを狭めたのは 自分自身ってことを

君に教わったから

 

とか

 

確証なんてのは一つもない でもね僕は迷わない

君が信じたことなんだから 僕にはそれで十分さ

 

 

などと、ほんとにこの彼氏は幸せそう。でも、ここまで幸せでいられるのは、本人の性格だけでなく、フローちゃんの彼氏ケア&フォローも上手なんだろうなと思うのです。

やりたいことがある女の子。その世界を彼氏と共有しても構わないけど、自分ひとりで駆けていきたい時と所がある。自分の足がどのくらいのスピードを出せるのか、どこまで高く遠く深く走っていけるのか、試してみたいと思う自分を、彼氏は果たしてどう思うだろうか。私のことを好きでいてくれる男の子。私も心から愛しい。どう緩急をつけてこの気持ちを伝えようか。

 

 

 

とりあえず、このフローライトを持っていてね

私の気持ちをあなたに預けていくから

大事にしてね 見失わないでね

私の体はひとつしかないの

世界を見に行きたいときに

あなたのそばにはいられない

私の中の静かな不安が

できるだけ澄んだ形であなたに伝わりますように

 

 

 

ふと、目を覚ますと隣に彼女が寝ていた。

「えっ、あっ?なに、いつ帰ったの」

思わず起き上がってベッドの上で正座した。

「・・・あー・・おはよう・・・」

「おはよう」

「今朝がたね、こっそりね」

「言ってくれれば起きて待ってたのに」

「いいよう、別に。あたし、今日まで有休。起きるまで寝てる」

「ん、わかった。俺、会社行ってくるわ」

「・・・いってらっしゃい・・・」

もう目も開けられないみたいだ。ま、いいか。うーん、と伸びをした。今日はミーティングがあるけど定時には出れるかな。夕飯どうするかな。なんか買って帰ってきた方がいいよな。外に食いにいく元気なさそうだし。

とんとん、と彼女が背中をたたく。

「どした?」

「今夜、話そうね。いっぱい」

目は閉じたまま。マスカラ、落ち切ってねーし。

「話したいことがたくさん。たくさんある」

「おう、俺も」

「話したいことがたくさん、たくさんある」

「聞いたよ」

「大事なことなので二度言いましたー。へへ」

「寝てろ寝てろ。いいから寝てろ」

そうだよな、大事なことは二度でも三度でも言いたいよな。俺も言うかな。心配はしてなかったけど、ちょっとだけさみしかったよ。四六時中いっしょにいなくてもいいんだけど、やっぱり顔見ると嬉しいよ。会社でさ、彼女に置いてかれたの、ってからかう奴もいるんだけど、俺、そんなことどうだっていいんだ。だって、俺が好きなんだからいいじゃないか。ちょっと変わったとこあるけど、そこが面白いし可愛いし、俺の彼女いいよな、って思う。てか、帰る時間くらい連絡しろよな、出迎えてハグしたかったのに。ま、いいか。今日、俺が帰ったらハグしてもらおう。きっとまだ寝ぼけてよれよれなんだろうけど、めいっぱい抱きしめ合おうな。

 

 

 

上機嫌で出社する彼氏なのでした。

こんな感じかな、このカップル。幸せ甘々エピソードしか浮かびません。私はフローライトちゃんと友達になりたいな、と思うのですが、男のひとが歌う歌の中の女の子と友達になりたいと思ったことってあったかな?うーん、すぐには浮かばない。ちょっと考えてみます。

 

 

 

 

で、フローちゃんだけでこんなに書いちゃったよ。感想のみで終わろうと思ってたのに、書いてるうちにつるつる話が出てきた。

まだ書きたい女の子いるので書いていいですか?ていうか、書きますね。続く。

 

 

米津玄師「Flamingo」「TEENAGE RIOT」感想

「TEENAGE RIOT」をオスカル・フランソワのスピリットとして聴きました。

おそらく「その花びらを瓶に詰め込んで火を放て」がイメージの元になっていると思われます。ベルサイユのばらの花びらがバスチーユで燃え上がるのです。オスカルは地獄の奥底にタッチして走り出す時に貴族の身分を置いてきたのですよ。ひとりの人間として新たな生を得たのです。

 

というように、新曲を好き勝手な聴き方で楽しんでいるところですが、米津作品にはこういうグランドロマンを匂わせるものがありますね。「砂の惑星」はグランドロマン・スペースオペラですし、「爱丽丝」はアジアン・アンダーグラウンド・テイルと銘打てるかなと思います。

安易に陰に陥らず、退廃に堕さず、向光性が強い世界観を持っていて、マイナーな気分にひたることを実は許さない作風だと思います。

 

それで、向光性が強い歌の割にはMVは真っ暗。ああ・・・。

いや、これ、普通にかっこいいですよ。歌ってる姿はキラキラしてます、電気ついてないけど。でも、どうしてもMVは見ていてもやもやするんですよね。もっとかっこよくなるはず、と思ってしまいます。

 

「ごめんね」では、「溢れる光に手が震えたって」と言ってるから、明るいところが怖いのかな。だからまだ暗いところにいるのかな。こんなに世の中に受け入れられているのに?

 

「Flamingo」は期待通りに聴き応えのある歌詞で幸せです。豊富な語彙が不思議に調和していて素敵です。

ちょっとよたって巻き舌巻いて歌ってますけど、歌詞は感傷的ではなく、むしろ叙景に近いですね。「よこはまたそがれ」方式です。「横浜 たそがれ ホテルの小部屋」と景色が名詞で並んでいくだけなのに心に響く、それが叙景。

 

「Flamingo」というタイトルは「パプリカ」と同じで、ちょっと発想が飛んでますよね。2020の応援歌でなんで野菜の名前なんだよ、とか、遊郭風のイメージで歌っておいて突然フラミンゴってわけわかんねーよ、とか、理屈で考えるとちょっと変。「作者の言いたいことは何か」という国語的解釈に立つとなお混乱する。

でもこれは、言葉の跳躍力なのです。

例えば、ニュースの言葉はほとんど飛びません。事実の伝達にイメージの飛躍は危険です。論説文、ドキュメンタリー、エッセイ、小説とだんだん飛躍が許容されていって、詩が一番飛ぶことを許されていると思います。米津さんは、聴いている人を完全に振り切るぎりぎり手前のところまで跳ね上がっているのですね。

また、歌詞は発語することが前提なので、意味付けだけではなく、音を優先する場合もあると思います。これ、「ふらふら」という擬音語が先立っているのではないでしょうか。「ふらふらふらみんご」って「さしもしらじな」とか「ながながしよを」とかの和歌と同じで、口に出したときに音の快感がありますよね。

「TEENAGE RIOT」は歌詞の内容にどんぴしゃな付け方をしているので、言葉のコントロールが巧みだなあと思います。

 

 

 

さて、ここ数ヶ月、聴き込み倒してきた結果、米津玄師さんには「不器用と不具合を抱えたお話好きな男の子」という印象を持ちました。

聞いて聞いて、僕の世界の話を聞いて、と常に呼びかけているけれど、なんかあんまり伝わらないなあ、としょんぼりもしていて、でもやっぱり歌うから聞いて、で締める感じ。

歌詞の中の女の子像も気になっているのですが、それは次回にまた。続く。

 

 

米津玄師「灰色と青」の更なる感想?

BOOTLEG、Bremen、YANKEEと聞き倒したので、MVも見てみようかなと思って、ちょっとだけ見てみました。

米津玄師さんに関してまったく何も知らないままにファンになったので、情報過多の時代にこの白紙状態は得難いかもと思って、敢えてインタビューの類も一切読まないでいます。作品とだけ向き合って「誤読」を楽しむ喜び。動く米津さんもほとんど見ていませんでした。

で、MVですが、ええと、その、なんでほとんどいつも薄暗いところで歌ってるの??

電気つけたら?眼が悪くなるよ?というおかあさんモードで見ちゃいましたよ。コンテンポラリー好みなんですかね。もうちょっと「キラキラ光った、パチパチはじいた」感じのも見てみたいかも。

「灰色と青」もねー、歌詞の内容から夜と明け方なのはそりゃそうなんだろうけど

「公園で遊ぶなら昼間にしなさいって言ったでしょ!マサキくんもおうちに帰りなさい!」

「えー、うち、まだおとうさんもおかあさんも仕事で帰ってきてないし」

「だったらうちでごはん食べて宿題するわよ!おかあさんにLINEしとくから。ええと、これからうちに連れて帰ります、と。ほら、ケンちゃん、さっさと立って!」

仕事からくたくたになって家路についてみれば、あれだけ言ったのにうちの子たちは人気のない公園にいて危ないったら。

「ねーねー、おばちゃん、今日もカレー?冷凍しといたカレー?」

「そうよー。冷凍しといたカレーよー」

「わーい、やったー。僕、おばちゃんのカレー大好き」

「ありがとー。あ、既読になった。おかあさん、9時頃迎えにくるって」

ふ、と軽いためいきをついた。今日も働いたなー。足だるいし重い。寝る前にマッサージしよう。私はきっと、とぼとぼとうつむいて歩いていたのだと思う。

「ほら、おかあさん、月。出てるよ」

「え、あー、ほんとだ。出てるね」

「うん、きれいだね」

「きれいね。ありがと、ケンちゃん」

うつむいててごめんね、とは言わないでおいた。これは私の決心のひとつ。うちの子に謝り過ぎないこと。ごめんね、許してね。そう言って楽になるのは私だ。この子じゃない。だから言わないことにした。

 

 

どうして

私の夫は早々にこの世を去ったのだろう

どうして

私と息子はふたりで生きていくことになったのだろう

どうして

これが私の人生なの

擦り切れるほどに繰り返した問いかけを

私は最近ようやくしなくなった

心の奥には暗い火が残っていて

いつまた噴き出してくるかわからないけれど

私は今を見ることにした

私にできることは今の空気を吸うこと

聞こえる声、目に映る景色、子供の頭をなでる私の手

不条理に耐えるために

私は五感のすべてを使って生きる

世の中に残っている愛情を逃さないように

月の光の柔らかさを美しいと思えるように

いつかこの子が大人になって月を見上げたときに

私のことは思い出さなくていい

この夜の帰り道だけでいい

 

 

マサキくんのおかあさんは9時きっかりに迎えに来た。ちょっといい?と小さな声で私に聞く。

「今日も公園にいたんでしょ?」

「そうなのよ。日が暮れたら危ないって何度も言ってるのに」

「あー、やっぱりケンちゃんは口が堅いか」

「?なあに?」

「公園のすべり台あるでしょ。あそこに上ると駅の改札が見えるんだって」

「改札?」

「うん。マサキが言うにはおかあさんたちが帰ってくるのを見守ってるんだって」

「え・・ええー!?なにそれ??」

「私たち、見守られてるらしいよ」

マサキくんのおかあさんはくすくす笑ったが、私は、なんというか、自分でもわからないくらいショックを受けてしまってうまく言葉が出てこなかった。

「で、でも、それは私たちがちゃんと帰ってくるか不安ってことじゃ」

「それもあると思う。地震も豪雨も多いしね。電車も遅れるし。でもいいじゃない。本人たちは楽しそうよ。老いては子に従っとけ、って感じ?ちょっとまだ老いるには早いけど」

「う・・・うん」

そうかあ、そんなこと考えてたのか。どっちかというとぼんやりした子だと思ってたけど、子供ってほんとに成長するんだなあ。なんだ。そうか。

少しだけ肩の力が抜けた私を、息子たちは高校生になるまで公園で見守ってくれた。さすがにもう連れて帰ることはない。

「適当に帰ってきなさいね」

ふたりに声をかけて歩き出すと、ケンはバイトだからと駅へ向かった。マサキくんは

「家まで送るよ」

と隣に並んだ。

「そんなことは彼女だけに言いなよ。おばちゃんは一人で帰れますー」

「おばちゃんのご飯が食べたいんだよー」

「あー、わかったわかった。今日はお肉焼くからたくさん食べてね」

 

私の人生から喪失の影が消えることはないだろう。でも、もっと年を取ったら、この道を私も思い出すのかもしれない。寂しさと苦しさを足元に纏いながら歩いたこの道を、懐かしくすら思える日が来るのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

ええと、妄想の極北を少しでもお楽しみいただけましたでしょうか・・・?

おかあさんモードから米津菅田を小5設定にして、「灰色と青」の夜の空気を混ぜてこねて、ぽんっと錬成してみました。おかあさんずには当てている女優さんずがいるのですが、内緒。おのおのお好きな役者さんでどうぞ。

ていうかさ、MVみたいに夜中に公園でブランコ漕いでる20代男子なんて速攻通報されるから、やっぱりさっさとおうちに帰ってね。

 

Anne of Green Gables 小さなアンの喜びは

中1の時に初めて「赤毛のアン」を読んで、いつか英語で読めたらいいなと思っていましたが、長い時間が過ぎて最近ようやく読めるようになりました。

単語はわからないものが多くてまだまだ力不足ですが、構文はなんとか取れるので、頭の中に降ってくる村岡花子訳と共に読んでいます。

 

原文を読んでいて面白かったのが、マシュウとマリラがアンを引き取ることにしたあたりで、アンがマリラをなんと呼べばよいかを尋ねます。

 

“Can I call you Aunt Marilla?”

マリラ叔母さんと呼んでもいいですか?

“No; you’ll call me just plain Marilla.”

いいえ。ただ、マリラ、とだけ呼んでちょうだい

(中略)

“Can’t I call you Aunt Marilla?”

マリラ叔母さんと呼んではだめですか?

“No. I’m not your aunt and I don’t believe in calling people names that don’t belong to them.”

だめです。私はあなたの叔母ではないし、親戚でもない人をそう呼んでいいとは思わないから。

“But we could imagine you were my aunt.”

でも、私の叔母さんだって想像することはできますけど。

“I couldn’t,” said Marilla grimly.

私はできないわね、とマリラは容赦なく答えた。

“Do you never imagine things different from what they really are?” Asked Anne wide-eyed.

現実とは違うものをまったく想像しないの?アンは目を見開いて尋ねた。

“No.”

しないって言ってるでしょう。

 

 アンもたいがいしつこく叔母さんと呼びたがってますが、マリラの答えもNoNoNoの連続で、コントの様相すら呈しています。日本語だと「いいえ」「ちがう」と言い換えますが、英語ではシンプルに”No.”だけなのでストレートで力強い感じがします。読者も最後の”No.”を予測して、マリラと同時に発することができそうな可笑しみがあります。

不幸な生い立ちの孤児相手でもおもねることなど一切なく、まっすぐに返事をするマリラ。厳しいけど決して嘘をつかない、適当なことを言わない、芯の通った強い人間だということがしみじみとわかります。

 

アンがダイアナと初めて会った時の描写もなかなかです。

 

“You’re a queer girl, Anne. I heard before that you were queer. But I believe I’m going to like you real well.”

あなたって変わってるわね、アン。変わっているとは聞いていたけれど。

でも、私あなたをとても好きになると思う。

 

ダイアナも言いたい放題言ってますが、「好きになると思う」とはっきり言ってくれたことで、アンがどれだけ喜んだことかと思います。空想の友達ではなく、本物の、初めてできた友達。自分の名前を呼んでくれる、黒髪の美しい友。

それまでのアン・シャーリーの人生には、他人の家を転々とする孤独と無益な労働とネグレクトしかなかった。誰もひとりの人間として養育してはくれなかった。

グリーンゲイブルズに来て初めて得た保護と愛情。孤児の自分を友人として受け入れてくれたダイアナ。オーチャードスロープで自分を待っているダイアナの元へ向かうアンの足取りは軽く、手にはいっぱいの花を抱えていたことでしょう。

 

会いに行くよ 並木を抜けて

歌を歌って

手にはいっぱいの 花を抱えて

らるらりら

 

 

そうなんですよ。私、つい米津玄師さんの「パプリカ」を聴きながら読んでいたので混ざってしまいました。いや、いいんですけど。

だってこの曲はとても素敵で、本当に想像の余地があるのよ。だとしたらイメージが膨らむのもしかたのないことだわ、そうでしょう?(村岡花子の翻訳調)

 

アンの「喜びを数えたらあなたでいっぱい」は、ダイアナのことだよなあ、と思いながら聴いておりました。

 

 

さて、私の人生においてアンシリーズを英語で全部読むのは私の力量では無理かとも思うので、シリーズ順ではなく、次は「アンの娘リラ」を読もうかなと思ってます。リラ、フルネームはバーサ・マリラ・ブライス。このブライス家の末っ子は、兄姉たちと違って勉強なんて興味なくて人生を楽しく過ごしたいと思っていたのですが、第一次世界大戦の勃発によって運命が変わっていきます。新潮文庫ではシリーズ最終巻にあたるこの長編を、私は、モンゴメリが戦争に対する思いを込めて書き上げた傑作だと思っています。未読の方はぜひどうぞ。

 

 

「ハレルヤ」フェアグランド・アトラクション

9月に入って涼しくなって「風は秋色」だなあ、すぐ冬も来るよなあ、と思ったところで、フェアグランド・アトラクションの「ハレルヤ」を思い出しました。

 

昔々、初めてこの曲を聴いたとき、歌詞がワビサビだと思ったものです。

 

The lights on the westway go on

A million cars hurry home

An ice cream van shuts off its tinsel bells

Winter won't be long

 

エストウェイの灯りがつづく

多くの車が家路を急ぐ

アイスクリーム売りはベルをしまう

もうすぐ冬

 

 

ここは出だしのところですが、俳句のような簡潔さで、ひとつひとつの単語が澄み切っているように感じます。メロディもきれいだからですかね。ウエストウェイってロンドンの道路の名前なんですね。検索して知りました。

 

それから、サビのフレーズも好きなんですけれども

 

Yes your smile is a prayer that prays for love

And your heart is a kite that longs to fly

Hallelujah here I am

Let's cut the strings tonight

 

あなたの微笑みは愛の祈り

あなたの心は凧のように飛ぼうとする

ハレルヤ 私はここにいる

今夜糸を切って飛びましょう

 

 

英国、凧、というとメアリー・ポピンズを連想するので、私の中ではこの曲を歌っているエディ・リーダーが傘につかまって空から降りてきています。作詞のマーク・ネヴィンは kite とか kiteflyer とか好きですね。

 

そしてこの歌詞の目玉は

 

We'll kiss the first of a million kisses

 

であることは言うまでもありません。そもアルバムタイトルも「ファーストキス」。

英語の語順の美しさといいますか、We'll kiss the first と入って、いわゆる人生初のキス、一回きりのファーストキスを連想させておいて、その後に of a million kisses とつなげることで相手との未来が広がり、はっとさせられるのです。

 

私たちはキスをする

これからあなたとかわすあまたのくちづけの

その最初のひとつを

 

といったところでしょうか。書き言葉では英語は右に右に世界を開いていきますが、日本語は下に下に降りてくるので、円錐を逆さにするイメージで訳してみました。空に向かって大きく広げた腕を空気を抱きしめる感じでゆっくり降ろして閉じていって、胸のあたりでぎゅっとこぶしを握る。最後のひとことに気持ちを結晶化させてすとりと落とす感じです。

 

 

 

英語の語順に初めてぎょっとしたのは、ストロベリーフィールズフォエバーです。

 

Living is easy

生きることは簡単だ、と言っておいて

with eyes closed

目をつぶっていればね、と条件をつけてきて

Misunderstanding all you see

見るものすべてを誤解したままでさ、とたたみかけてくる

 

中学生だった私は「えっ、ひどい」と思ったものです。人生は簡単だと油断させておきながら、どん底に突き落としていく感じ。これが英国のシニカルさなのかしらん、とも思いましたね。

 

懐かしい歌を思い出して、英国の詩情も善き哉、というお話でした。