Anne of Green Gables 小さなアンの喜びは

中1の時に初めて「赤毛のアン」を読んで、いつか英語で読めたらいいなと思っていましたが、長い時間が過ぎて最近ようやく読めるようになりました。

単語はわからないものが多くてまだまだ力不足ですが、構文はなんとか取れるので、頭の中に降ってくる村岡花子訳と共に読んでいます。

 

原文を読んでいて面白かったのが、マシュウとマリラがアンを引き取ることにしたあたりで、アンがマリラをなんと呼べばよいかを尋ねます。

 

“Can I call you Aunt Marilla?”

マリラ叔母さんと呼んでもいいですか?

“No; you’ll call me just plain Marilla.”

いいえ。ただ、マリラ、とだけ呼んでちょうだい

(中略)

“Can’t I call you Aunt Marilla?”

マリラ叔母さんと呼んではだめですか?

“No. I’m not your aunt and I don’t believe in calling people names that don’t belong to them.”

だめです。私はあなたの叔母ではないし、親戚でもない人をそう呼んでいいとは思わないから。

“But we could imagine you were my aunt.”

でも、私の叔母さんだって想像することはできますけど。

“I couldn’t,” said Marilla grimly.

私はできないわね、とマリラは容赦なく答えた。

“Do you never imagine things different from what they really are?” Asked Anne wide-eyed.

現実とは違うものをまったく想像しないの?アンは目を見開いて尋ねた。

“No.”

しないって言ってるでしょう。

 

 アンもたいがいしつこく叔母さんと呼びたがってますが、マリラの答えもNoNoNoの連続で、コントの様相すら呈しています。日本語だと「いいえ」「ちがう」と言い換えますが、英語ではシンプルに”No.”だけなのでストレートで力強い感じがします。読者も最後の”No.”を予測して、マリラと同時に発することができそうな可笑しみがあります。

不幸な生い立ちの孤児相手でもおもねることなど一切なく、まっすぐに返事をするマリラ。厳しいけど決して嘘をつかない、適当なことを言わない、芯の通った強い人間だということがしみじみとわかります。

 

アンがダイアナと初めて会った時の描写もなかなかです。

 

“You’re a queer girl, Anne. I heard before that you were queer. But I believe I’m going to like you real well.”

あなたって変わってるわね、アン。変わっているとは聞いていたけれど。

でも、私あなたをとても好きになると思う。

 

ダイアナも言いたい放題言ってますが、「好きになると思う」とはっきり言ってくれたことで、アンがどれだけ喜んだことかと思います。空想の友達ではなく、本物の、初めてできた友達。自分の名前を呼んでくれる、黒髪の美しい友。

それまでのアン・シャーリーの人生には、他人の家を転々とする孤独と無益な労働とネグレクトしかなかった。誰もひとりの人間として養育してはくれなかった。

グリーンゲイブルズに来て初めて得た保護と愛情。孤児の自分を友人として受け入れてくれたダイアナ。オーチャードスロープで自分を待っているダイアナの元へ向かうアンの足取りは軽く、手にはいっぱいの花を抱えていたことでしょう。

 

会いに行くよ 並木を抜けて

歌を歌って

手にはいっぱいの 花を抱えて

らるらりら

 

 

そうなんですよ。私、つい米津玄師さんの「パプリカ」を聴きながら読んでいたので混ざってしまいました。いや、いいんですけど。

だってこの曲はとても素敵で、本当に想像の余地があるのよ。だとしたらイメージが膨らむのもしかたのないことだわ、そうでしょう?(村岡花子の翻訳調)

 

アンの「喜びを数えたらあなたでいっぱい」は、ダイアナのことだよなあ、と思いながら聴いておりました。

 

 

さて、私の人生においてアンシリーズを英語で全部読むのは私の力量では無理かとも思うので、シリーズ順ではなく、次は「アンの娘リラ」を読もうかなと思ってます。リラ、フルネームはバーサ・マリラ・ブライス。このブライス家の末っ子は、兄姉たちと違って勉強なんて興味なくて人生を楽しく過ごしたいと思っていたのですが、第一次世界大戦の勃発によって運命が変わっていきます。新潮文庫ではシリーズ最終巻にあたるこの長編を、私は、モンゴメリが戦争に対する思いを込めて書き上げた傑作だと思っています。未読の方はぜひどうぞ。

 

 

「ハレルヤ」フェアグランド・アトラクション

9月に入って涼しくなって「風は秋色」だなあ、すぐ冬も来るよなあ、と思ったところで、フェアグランド・アトラクションの「ハレルヤ」を思い出しました。

 

昔々、初めてこの曲を聴いたとき、歌詞がワビサビだと思ったものです。

 

The lights on the westway go on

A million cars hurry home

An ice cream van shuts off its tinsel bells

Winter won't be long

 

エストウェイの灯りがつづく

多くの車が家路を急ぐ

アイスクリーム売りはベルをしまう

もうすぐ冬

 

 

ここは出だしのところですが、俳句のような簡潔さで、ひとつひとつの単語が澄み切っているように感じます。メロディもきれいだからですかね。ウエストウェイってロンドンの道路の名前なんですね。検索して知りました。

 

それから、サビのフレーズも好きなんですけれども

 

Yes your smile is a prayer that prays for love

And your heart is a kite that longs to fly

Hallelujah here I am

Let's cut the strings tonight

 

あなたの微笑みは愛の祈り

あなたの心は凧のように飛ぼうとする

ハレルヤ 私はここにいる

今夜糸を切って飛びましょう

 

 

英国、凧、というとメアリー・ポピンズを連想するので、私の中ではこの曲を歌っているエディ・リーダーが傘につかまって空から降りてきています。作詞のマーク・ネヴィンは kite とか kiteflyer とか好きですね。

 

そしてこの歌詞の目玉は

 

We'll kiss the first of a million kisses

 

であることは言うまでもありません。そもアルバムタイトルも「ファーストキス」。

英語の語順の美しさといいますか、We'll kiss the first と入って、いわゆる人生初のキス、一回きりのファーストキスを連想させておいて、その後に of a million kisses とつなげることで相手との未来が広がり、はっとさせられるのです。

 

私たちはキスをする

これからあなたとかわすあまたのくちづけの

その最初のひとつを

 

といったところでしょうか。書き言葉では英語は右に右に世界を開いていきますが、日本語は下に下に降りてくるので、円錐を逆さにするイメージで訳してみました。空に向かって大きく広げた腕を空気を抱きしめる感じでゆっくり降ろして閉じていって、胸のあたりでぎゅっとこぶしを握る。最後のひとことに気持ちを結晶化させてすとりと落とす感じです。

 

 

 

英語の語順に初めてぎょっとしたのは、ストロベリーフィールズフォエバーです。

 

Living is easy

生きることは簡単だ、と言っておいて

with eyes closed

目をつぶっていればね、と条件をつけてきて

Misunderstanding all you see

見るものすべてを誤解したままでさ、とたたみかけてくる

 

中学生だった私は「えっ、ひどい」と思ったものです。人生は簡単だと油断させておきながら、どん底に突き落としていく感じ。これが英国のシニカルさなのかしらん、とも思いましたね。

 

懐かしい歌を思い出して、英国の詩情も善き哉、というお話でした。

 

東京医科大の入試

東京医科大の入試をめぐる事件は、人の努力を愚弄するにも程がある。

医者になりたいと思った子供が努力して努力して努力して、それでもすんなりと合格できるわけではない、それが医学部入試だ。子供の純粋な努力に対して公正な結果を出すのは大人の当然の義務だろう。

 

女性が子供を産むために一時仕事を離れるのも医者だけではあるまい。産休の間の仕事をどう回すかを考えるのはすべての職業に共通したことだ。医者の世界が多忙を極めて正常な判断ができないのであれば、まずは自分たちの仕事を見直すべきであって、受験生にしわ寄せがいくなど恥を知るべきだ。

 

18、9の人間などまだ子供だ。世の中には不条理も理不尽もあることには気付いているが、それでもどこか大人を信用している、信頼すべき社会がそこにあるという希望を完全には失っていない存在なのだ。大人ならば子供の期待を裏切ってはならないと私は思う。

 

不合格だった受験生は、受験料の返還や成績の公示など、後悔が残らないように納得のいくまで追求してほしい。そして、まだ医学部受験をしようと思っているのであれば、自分の努力を信じ続けてゴールまで完走してほしい。

医学部ではない道をすでに進んでいるのであれば、その道は正しいんだよと言ってあげたい。諦めてくじけたかもしれないけれど、今までの努力は別の形で報われる。報われる日は今日や明日ではないかもしれない。10年後20年後かもしれない。でも、努力の仕方を学んで、それによって得た知識や考察力は、あなたのまなざしを明るく聡明にしていると思う。それは誰にも奪われない力であり、必ず開花する時がくる。複雑な人生の道の足元に美しい花を咲かせる力はすでにその手にあるのだと伝えたい。

 

「エモい」

「エモい」という言葉を聞いて思い出したのが

八木重吉「素朴な琴」

 

この明るさのなかへ

ひとつの素朴な琴をおけば

秋の美くしさに耐えかね

琴はしずかに鳴りいだすだろう

 

 

「耐えかね」がエモのキモかなあ、と思うのですが

どうなんだろ??

いまひとつ使いどころが想定できずにいます

どうしても発語するとしたら

「エモーショナルですね」ってフルスペル唱えてしまうかも

 

君死にたまふことなかれ ヌナの願い

2017年12月、SHINeeのジョンヒョンが自死する前、お姉さんにそれが察せられるメッセージを送ったそうだ。お姉さんはすぐ警察に通報する。でも、間に合わなかった。

2018年1月、女優ハ・ジウォンの弟で俳優のチョン・テスも自ら亡くなった。

ふたりとも鬱病だったと報じられている。

 

今月16日、チャン・グンソク躁鬱病を公表して入隊した。またこの病気なのか、と重い気持ちで記事を読んだ。3人とも世界中にファンがいて、多くの関心と愛情を寄せられている。それでも何故こうなってしまうのか、それとも病は愛情の授受とはなんの関係もないからなのか。一介のファンですら悲しむものを、お身内の方やともに仕事をしてきた方たちの胸中はいかばかりかと思う。

 

韓国芸能界では、ちょっと前まで歌手や役者の住所が公表されていて、ファンが家に行ったりしていたらしい。芸能人の扱いがいかに無防備で雑だったかがわかる。待遇改善を理由に事務所ともめるケースも目につく。売れる前の若い女性が「接待」をさせられることも噂ばかりではないらしい。

私は素人なので何も断言はできないが、そこから「世界の韓流」に昇りつめるためには、実務的にも意識改革という意味でも、並大抵の努力では済まなかっただろうと思う。

 

チャン・グンソクくんは、最初に日本でコンサートを開いたとき、ホールの半分しか席が埋まってなかったそうだ。それで、毎年必ず日本でコンサートをして、いつかきっと満員にしてみせると思ったらしい。それはやがて叶うことになるのだが、この男気、生真面目さ、しかも見せる姿は日本人の好感度に合わせた「かわいいグンちゃん」だったのだから、どれだけのエネルギーを使ったことだろうかと今更ながら思う。

 

なぜ病気になったのかなど、誰にもわかりはしない。病気になってしまったら、どうつき合っていくかを考えるしかない。

チャン・グンソクくんは一人っ子でお姉さんはいない。でも、世界中のヌナ(お姉さん)が見守っていることが伝わるといい。心からの愛情が届くといい。

 

「BOOTLEG」感想

米津作品で最初に聞いたのは「lemon」です。「わたしのことなどどうか忘れてください」のくだりで浮かんだのは、日吉ミミ金井克子藤圭子夏木マリという名でした。私が子供の頃にテレビで見ていた情念を歌う大人の女性たち。不幸な匂いのする女性の一人称ソングが得意な人なのかな?との感想を保留にしつつ、他のも聞いてみたいと思っていたら、大好きな菅田将暉くんと歌ってらしたので購入。

その「灰色と青」は古典的深読みができたので、面白いと思ってアルバム「BOOTLEG」を聴き込みました。

 

第一印象では「かいじゅうのマーチ」が好みです。小学校唱歌が組み込まれているというだけでもう好き。

でも、一番引っかかったのは「愛と歌うよ」の助詞の「と」。

普通は「愛『を』歌う」になると思うし、それであっても楽曲の価値が損なわれることはない。けれど、ここが「と」になることで言葉が粒立つ。バニラアイスだと思って食べてたらクッキーアンドクランチで、舌に予期せぬ小さな塊が当たる、あの感触。食べ物も言葉も五感に響くのは変わらない。 

それから「涙を隠しては」の「は」。ここ、散文的には解釈しにくい。

 

さあ出かけよう 砂漠を抜けて

悲しいこともあるだろうけど

虹の根元を探しにいこう

あなたと迎えたい明日のために

涙を隠しては

 

あなたと明日を迎えたいから涙を隠しては出かけるし探しに行くんですよね?てことは、しょっちゅう泣いてるの?泣きたいほど「あなた」と一緒にいるのが幸せで嬉しかったり悲しかったり怖かったりするけど、涙を隠しては顔を上げて愛と歌うのね、きっと。たぶん。いい子ね、かいじゅうくん。

というように、聞く側の探求心をかきたてるのが、この「は」なんですよ。そして、かなりの手練れじゃないとこういう詩は書けない。米津玄師、何者だ。と思ってブログを読んだら、「畢竟」ってサラリと書かれてあって、ああ、これは普通の語彙の持ち主ではないなと納得しました。最近、目にしないですよね、「畢竟」。

 

ひとりの人の語彙には、話し言葉と書き言葉があると私は思っています。話は面白いけどメールだと没個性の人、話はヘタだけどLINEでのやりとりは魅力的な人、前者は耳から入る口語に強く、後者は目で見る文語に強いのだと思います。

畢竟は書き言葉。読書からしか得られない語彙です。言葉はその人を明らかにする。相当な読書家なんだろうなと更に興味がわいたのです。

 

iTunesで各アルバムの曲のタイトルだけを見ていくと、澁澤龍彦、東京グランギニョル少女革命ウテナなどのイメージが浮かびました。古風で浪漫的でほんの少し退廃的でもある言葉の渦。試聴してその音の意外な明るさとポップさが言葉の重さを相殺するのを感じながら、ああ、ここから「lemon」に行き着いたのか、と腑に落ちました。

たぶん、「OFFICIAL ORANGE」「diorama」の頃は、中二病の歌詞と言われていたのではないかしら。そこには支持も称賛も込められてはいたと思うし、そう言われかねないような漢字使いだけど、違いますよ。

これは文学的内省というのです。

本好きや言葉にこだわりがある人間は誰しも通る道です。やや大仰とも言える表現を使ったり、日光よりは月光を好むような感性をよしとしたり、表現をする喜びに気付いたことに優越感を持ったり、大人になってふり返ると赤面してしまうような自意識過剰さをスタート地点として、そこからどれだけ自分を脱ぎ捨てていけるか、この内省なしには洗練された言葉にはたどりつけないのだと思います。

 

「lemon」の歌詞には不必要な言葉の突起はない。使っている単語が平易でわかりやすく、カラオケで歌っても何も異物感はない。

削ぎ落して精錬したあげくのシンプルな筆致の中に「切り分けた果実の片方の様に」という比翼の鳥・連理の枝を想起させるフレーズが際立って美しい。

暗くノイズの多い内省という名の洞窟を彷徨って、持ち物もすべて落として失くして身ひとつで這い出ていった先に開けた地平でうたう歌。そこにこそ個性という光が静かに宿るのでしょう。

 

 「YANKEE」も「Bremen」も聴き込み中ですが、全体的に、歌詞が混濁していても音は明るくて精巧で楽しいですよね?「アイネクライネ」とか「産まれてきたその瞬間にあたし 『消えてしまいたい』って泣き喚いたんだ」って、そんなわけねーだろって突っ込みどころの多い歌詞なんだけど、この太宰並みに鬱陶しい内容を聞き流せるくらいメロディは可愛い。何度でも言う。明るくて楽しくて可愛い。このバランスがとても気持ちいい。

 

しかし、米津玄師さんが人気があるのは、声もいいからですよね。ネットスラングで言う「雄み」があるってやつですね。男性的な性的な魅力がにじみ出ている様、という意味で若いお嬢さんたちが嬉々として使ってるこの言葉、最初、なんのことかわからなかったんですが、「ねむみ」「やばみ」の仲間だとわかってわかりみが深まりました。

 

私は詩を読むのが好きなので、こういういろんな読み方ができる歌詞にめぐり会うと本当にわくわくします。世の中には私が知らない良い歌がたくさんあるのだと思います。が、この世のすべての曲を聞くことはできないので、こういう風に出会えることが大切なんですよね。良い出会いが果たせて満足です。新作も楽しみに待ってます。

 

「刺さる」感動

胸に刺さる、という表現をここ数年目にする。若い人たちの間で感動したという意味で使われていることは文脈からわかる。が、「あの言葉が胸に刺さった」「この映画は胸に刺さった」という言い回しを目にすると、刺されて負傷しているにもかかわらず愉悦の表情を浮かべて横たわる人々をイメージする。跳ね返す弾力性のない心にさくさくと突き刺さる鋭利な感動。なんかおかしくないか。と思う。

感動は胸に響くものではなかったか。胸いっぱいに広がるものではなかったのか。心が晴れやかに膨らんで、その空間に喜びや希望や祝福が響き渡る様を「感動した」と言い現わしていたのだと思う。

 

私が中高生の頃に流行ったのは「むかつく」という表現だった。これは、自分は不愉快に感じていますという感想を一方的につぶやくだけの言葉だ。傲慢だなあ、と子供ながらに分析し、自分はこの言葉を使うのはよそうと思った。戦おう反抗しようという意志はそこにはなく、生ぬるい自己主張だけはする「むかつく」。

昨今の「刺さる」という言葉からは、若さゆえの不遜な自己主張すらせず、人を感動させるような強い力を一方的に受けるだけの姿が想起される。

 

最近の若者は傷つきやすいのだ、とか、跳ね返す力も失ってしまったのだ、などとは思わない。同じ時代を生きていても、人はひとりひとり違う。流行り言葉で人をくくることには意味はない。かつての私がむかつくとは口にしなかったように、刺さるとは決して言わない若い子さんもいるだろう。

ただ、流行るからには、その時代を象徴するものが自然と浮き上がってくることは否定しない。その象徴が「刺さる」という穏やかではない表現にも関わらず、刺さった刺さったと高揚して使っていることにちょっとギョッとしているのだ。